ロシア文学と 大泉黒石

大泉黒石は明治26年(1893)生まれで、大正8年(1919)年に『俺の自叙伝』で文壇デビューする。

詳しくはわからんけど、ロシア語に堪能な作家としては二葉亭四迷以来ではないかと思う。

その黒石はゴーリキーの『どん底』を大正10年(1921)に東亜堂より出版している。これが本邦初かどう

かはわからない。

大正11年には『露西亜文学史』を大鐙閣から出してもいる。この本は講談社学術文庫として復刊した

が、再び絶版となっている。


日本文学とロシアのそれとの関連については完全に無知だ。


ゴーリキー。その葬儀にスターリンも参列した偉大なマクシム・ゴーリキーではない。

アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(ゴーリキーの本名)。

家具職人の子として生まれる。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となった後、話が上手であった

祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を

転々としながら放浪する(ウィキペディアより)ゴーリキーだ。


一方で、日露戦争(明治37,38)、ロシア革命(大正6)、シベリア出兵(大正7-11)と日本とロシアの緊

張関係が続くなか日露混血の「国際的居候」であった黒石。


柳田国男的に言うなら、その非「常民」的な共感がゴーリキーと黒石を結びつけたと思う。

また、黒石とやたらと気が合っていた辻潤ゴーリキー全集の月報に次のように書いたりしている。

トルストイもドフトエフスキーも、ツルゲーネフも、その文学的才能においては遥かにゴーリキーを凌

駕していたかも知れない。しかも無産階級的情熱と自由性と奔放なる生活力を体現した点においては、遂

にマキシム・ゴーリキーに及ばざることはなはだ遠いのである。」

これは、黒石にも当てはまる言葉かも知れない。


<大衆>文学―<純>文学という括りと、その才能ゆえに同業者=文壇から排除されてしまった黒石。

その性格は自滅的でもあったが、戦後は創作意欲を持ちながらも滅んでしまった黒石。

黒石文学を正当な近・現代文学史の中に位置づけるべきだと思ったりもする。

黒石は紛い者でも、あぶくのような存在でもないのだ。



林芙美子の隣に住んでいたころの話。

黒石一家は食うものもない状態だったが、黒石は隣の林芙美子に聞えるように子供たちと一緒に叫んでい

たそうだ。「いただきま~す」、「おいしいね」、「ごちそうさま」。



1988年、緑書房から『大泉黒石全集』(全8巻)が刊行される。

各紙の書評タイトルでいちばん気に入っているのがある。


    明るい<虚無主義>が帰ってきた


日刊ゲンダイもなかなかやるなあ。