『 ものろぎや・そりている 』

辻潤のエッセイ『ものろぎや・そりている』の意味がわかった。

monologue/solitaryで孤独者の独り言でいいのか。

怪しい日本語と大阪弁しか出来んので、コメントいただいた方ありがとうです。m(__)m

お礼に『ものろぎや・そりている』からお気に入りを。


自分は自分の持って生まれた気質がイヤが上にも助長することはあっても、それを矯め直そうな

どとは金輪際思ったことはない。


ところで、シュティルナーは「唯一者」。

辻潤は「低人」。

辻まこと「自分以外のものになろうとしない率直さだ。」 なんて書いている。


どうも【辻潤】は一話完結でなくて、【辻まこと】までの二話完結ではないかと思ったりする。


折原脩三の『辻まこと・父親辻潤』を読んだ。

この本は三度目だ。他に『大菩薩峠曼荼羅論』を読んだことがある。

折原脩三は疲れるから苦手なのだ。言い回しがアカンのだ。

例えばこんな感じ。


これはアン・リネルの複数主義の要約であり、「多元論」などという西洋語で、相互に性質を異にする無

数のスールマタ(種子)の設定などといったアナクサゴラスあたりに遡って研究する必要もなかろう。だ

から、辻潤のようにこれを単なる日本の知恵とする方が、手っ取り早く賢明であり、老子も、この点で辻

潤と握手するだろう。


・・・この折原の文章は辻潤の以下の文章に対するものだ。


主義や、階級によって極めて簡単に自分という人間を片付けられることは、真平御免蒙りたい。僕のよう

な顔をした人間は、世界中に幾人いるかも知れないが、幾人いたって、それは単に僕の顔に似た顔の持主

であって、僕と全然同一の顔をした人間は、恐らくいやあしまい。それは、諸君の場合でも同然である。

そのように、僕の思想や、血肉が、どんな風に他と類似していようが、最後には、僕だけが唯一無二のも

のを持っているのだ。自分の個性が独自であればある程、自分を自分として表現する意義を生じてくるわ

けだ。


言葉の意味が分からないのは、自分の無知のせいだから分かるようにすればいい。

けど、これは小骨の多すぎる魚食ってるみたいで、途中で何の話だったかも飛んでしまうのだ。

私は音痴でリズム感もないけど、リズムのない文章は苦手だ。


とにかく「辻潤」、「辻まこと」、「シュティルナー」までを守備範囲に進めていこうと思っている。