サークル村の三人

朝日新聞の夕刊で「現代の漂白」というシリーズが始まっている。

だいたい世の中が息苦しくなってくると、この手の企画がどこかで始まる。

「漂泊」、「リバータリアン」なんて言葉が飛び交うけども、彼らの存在した事の意味を探るより、夏の

暑い日に見る金魚鉢の金魚のように、こんな人もいるよ、スッキリしたらまたがんばってみたいな、ちょ

っと違うかも知らんけど、結果としてそんなやつが多いのも事実。

別にそれでもいいけど。とにかく、この朝日の企画の悪口を書くのではないのだ。


高木護の記事にこんなのがあった。一部要約。

詩人で医者の丸山豊邸で、主宰する詩誌『母音』の集まり。1950年代初めには、後に詩人、作家として名

をなす谷川雁川崎洋森崎和江、松永伍一らが顔を見せた。

「座を仕切る理論化肌の谷川に決まって食ってかかる、目のギョロリとした男がいた。「雁さんの話は難

解すぎる」。高木護である。まだ子供だった丸山の長男で医師の泉(56)は振り返る。「有名にならなか

った高木さんのことが一番印象に残っている。子供心に異質な存在だと分かった」。


これについては、高木護も自著『辻潤-個に生きる』の中で書いている。


「昭和三十四年五月。福岡県中間市サークル村。村にというよりも、谷川雁さんと森崎和江さんの同棲

先の居候となった。中間市には大正炭坑というのがあって、ストライキが泥沼化していた。なんでそんな

ことになったのか。風来坊の私には判るはずもなかったが、ストライキの相談役というのか、指導を詩人

谷川雁がやってるのが不思議でならなかった。~ツルハシやスコップを握ったことのない男に、坑夫た

ちの心が判るはずがないからである。~指導するほうもほうだが、しどうされるほうもほうだ。~いつか

は「溝」ができることだろう。~あげくにはストライキに袋叩きの目に遭い、半殺しにされるのがオチで

中間市から逃げ出す日がやってくるに違いない、とわたしは居候の分際でそんなことを思ったりした。」


高木の記述は1979年時点のものであり、谷川は既に九州を離れ上京の後、黒姫山に移住している。

ある意味で、大正行動隊の一幕が降ろされたあとの記述であることを割り引いて考えないといけない。

しかし、高木の指摘は当たっているように思う。それは、谷川の変節についてではない。文学者である谷

川のそうした行動を相容れないものとして指摘したのだと思う。


高木護自身は、その後も人夫稼業を続ける。「昭和34年7月。八幡市のある労働下宿。日当、五百二十

円」という日々を送りながら、自我教を唱え、飯場辻潤と名のったりする。


そしてもう一人。上野英信がいる。

「あそこなら俺は生きていけるかもしれない」と炭坑に根を下ろした上野英信


例えはうまくないだろうが、手のひらで砂をすくったとしよう。

指の間からこぼれた砂の行方を追い続けたのが上野英信なら、こぼれた砂の中で生きてきたのが高木護。

なら、谷川雁は?私にはわからないのだ。

谷川の『工作者の論理』は「私は見えないものについて語る人間です」と始まる。


ともかく、たしかに三人はサークル村で交わっているはずだ。

高木護と上野英信。二人は言葉を交わしたのだろうか?


サークル村といえば、森崎和江の仕事もすごい。


『まっくら : 女坑夫からの聞書き』森崎和江著、 山本作兵衛画 (現代思潮社/ 1970)より。


神さんも坑内のことは、つかめんとよ。


神さんも地の下ににんげんが入ると、生きとっても生きとらんのと同じことげなばい。神さんにも。


信心は、これは地の上のことばい。


神も仏も、これは地の上のことばい。


(坑内に)入っていいか悪いか、これは信心できめるもんじゃなかよ。


意志ばい。


人間は、意志ばい。