ふもれすく

世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。


辻潤の『ふもれすく』は大正12年(1923)の11月に『婦人公論』の依頼で書かれたものです。

その年の9月1日が関東大震災。混乱治まらない9月16日、辻の元から去った伊藤野枝大杉栄と甥の橘宗

一は共に憲兵に連行され虐殺されます。「甘粕事件」です。


前夫である辻潤に殺到した執筆依頼。それに初めて応じ、雑誌『婦人公論』に書いたのが『ふもれすく』

です。これ以外に、事件や伊藤野枝について直接的に書いたものはないといっていいくらいです。


「ふもれすく」は「ユーモレスク」のこと。辻潤らしいタイトルです。

「しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野

枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。」なんて辻は書いてます。


私が辻マニアとなるきっかけも『ふもれすく』。もう少し引用します。


僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。

それは、しかし世間に対するそれだけではなく、僕自身に対してのみのそれである。

自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心

を自分に対して持っている。ただそれのみ。

もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑し

たことは一度もないのである。


『ふもれすく』は青空文庫にあります。
    →http://www.aozora.gr.jp/cards/000159/files/852_21056.html



そうそう、辻潤の【低人】は、相田みつおではありません。

「低人だっていいじゃないか 人間だもの」とは一言もいっておりません。

辻の【低人】は、彼自身が楔を打たれたM・シュティルナーの【唯一者】そのものです。

辻潤は書きます。

・・・一切の価値はただ自己が創造するのみだ。自分以外に価値を見出すものは自分以外に権威を認める

ものだ。他人の評価を持たなければ自己の価値の解らないような人間は自己の所有者ではない。そんな人

間は、他人の価値観の変わる度毎に自分の価値を変えなければならない。」・・・『価値の転倒』より


だから、「世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである」と言い

切るのです。


【唯一者】から【創造的虚無】へと話は流れていくのですが、それはまたの機会に努めます。



ついでに【唯一者】についてシュティルナーはこう書きます。

・・・当の人間は、憧れの的である未来にあるのではなく、現に今ここに生存しているのである。たとえ

僕が如何様にあり、何者であろうとも、悦びに溢れていようと、悲しみに閉ざされていようと、また子供

であろうと老人であろうと、安心していようと疑惑に陥っていようと、眠っていようと醒めていようと、

僕はそれであり、本当の人間である。・・・(シュティルナー/唯一者とその所有)