『台所のおと』

  

mizunoene17さんからリクエスト頂きましたので<再上映>致します。

この頃は、食い物の「音」と「匂い」が消えたような気がする。(2007.11.14)


  ******************************************


料理の材料はそれぞれに、時間を背負っているものだ。

今日こしらえていいものもあれば、昨日から仕込んで今日使う二日の味もあるし、何ヶ月もの貯蔵の味も

ある。

きょうのあきの台所には、二日の味がまるで欠けており、それは気おもくなることだった。

・・・幸田文『台所のおと』


本を読んでいると、その主題や粗筋に関係なく「あっ、これほんもの」と思うことがある。

幸田文で最初に読んだのがこの本。上の文章に出くわした時に「あっ、これほんもの」となった。

人に食わす料理を作る現場で働いていたことがあるのだ。

料理の現場は、秘伝のタレや厳選素材や、どこそこで修行したシェフで決まるわけはない。

まして、どこかの先生には申し訳ないが、愛情なんかで決まるものではない。

仕込みと段取りが全てといっていい位だ。

現場には食材を中心にいろんな時間が混じり合っている。それはそこに立てば実感できることだ。


しかし「料理の材料はそれぞれに、時間を背負っているものだ。」と書ける人はそうはいないだろう。

幸田文は料理では相当に父親にしごかれている。

幸田文の『正月記』に父露伴の正月用の料理が書いてある。

正月用に用意した酒肴は、からすみ、雲丹、このわた、紅葉子、はららご、カヴィヤ、鮭のスモーク、チ

ーズ、タン、ピクルス、口取、数の子、野菜の甘煮、豆のいろいろ、ゆばに菊のり、生椎茸、鮎の煮びた

し、雉の味噌漬け、だしはやかましかつお、昆布、鶏骨を揃え、油は胡麻、椿、ヘット、鳥と備え、こ

れらを生かす薬味類、であった。

これらの料理を娘である文が作り、手配していたのである。


露伴の、死の直前の誕生祝の膳も文が作っている。戦後間もない昭和22年のことだ。

お椀、野菜の甘煮、ひたしもの、塩焼、赤飯。塩焼きは小さい鯛でわびしいものだったらしい。

文は「うちは貧乏だったから、父が子のときは、こんなお膳だったのだ」と考えたとある。

露伴は最後に文に向かって「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」と言って亡くなったそうだ。


ところで『台所のおと』に戻る。

「だがまた、これはどういうことだろう。愛情をみつめれば心はひそまるものを、重病に眼をむければ、

ひそまっていた心は忽ちたかぶり緊張し、気持ちに準じて手足も身ごなしも、きびきびと早い動作になろ

うとする。そしてそれはなかなかに悪くない感じなのだった。」(『台所のおと』)


病む人の側にいながらも、台所に立ち「そしてそれはなかなかに悪くない感じなのだった」と書く人。

「流れる」でもそうだけど、幸田文の人や物との距離感覚は不思議だが、なるほどと思ったりする。

これは、逆境の中で存在感を持つとかいうことではない。

少なくとも俗情と結託することなく、側に立つことの出来る人がそこにはいるのだ。

まだ、それが何なのか?私にはわかっていないのだ。

この感覚が、父露伴との葛藤の中で生まれたのかどうかもわからないのだけど。


関係ないけど、幸田露伴という人は『五重塔』しか読んだことがない。

幸田文は父の露伴から「おまえは赤貧洗うがごとき家へ嫁にやる」と言われたらしい。

露伴露伴で、父親から兄弟の中で出来の悪かった露伴に「大工になれ」と言われたりしている。

それぞれ、事情は抜きで言葉だけ取り出してみるとなかなかのもんだ。


ちなみに、私の親父に言葉はなかった。

フライパンで思いっきり息子の頭をどついただけだ。

で、私は料理人を諦めた。

どうも私は「どんくさい」らしい。