大阪弁の侠客
きのうKBS京都の「中島貞夫の邦画指定席」で『 明治侠客伝 三代目襲名 』やってました。
監督が加藤泰で1965年の作品。
主演が鶴田浩二で藤純子、嵐寛寿郎、藤山寛美、津川雅彦、安部徹、大木実、丹波哲郎…。
むかし、佐藤忠男のヤクザ映画についての評論にこんなのがありました。
主人公=着流し=前の時代の人間に対して敵役=洋服=新しい時代の人間。
登場人物の人格がどうであろうと、時代から取り残されていく人間が、時代に後押しされてる人間に勝て
るわけもないのです。
死ぬ覚悟=殴りこみで自分たちが生きてきた世界を全うする。そんな事への郷愁がヤクザ映画が受ける理
由。こんなんだったと記憶してます。
なるほどなあと思ってたのですが、昨日もうひとつ気がついたのです。
それは言葉です。
鶴田浩二は関西弁で、大木実と丹波哲郎だけは標準語となってたのです。
もう少し詳しく見ると【洋服:着物】と【方言:標準語】は役どころに応じて明確に別けられており、そ
れが映画を面白くしてもいるのですけど、映画自体の話ではないので省略します。
映画は、線路上で抱き合う鶴田浩二と藤純子から、画面方向に走ってくる機関車を映して終わります。
機関車が何を意味しているのかがわかるような気がしました。
いつもの様に話が変わりますけど、島村洋子に『てなもんやシェイクスピア』って本があります。
例えば『近江の商人』。
「ローンズ・ちょっと貸したれ屋」の悪徳金貸し、佐井六輔(シャイロック)なんてのが登場します。
しっかり笑えます。
たしか、真面目な『ベニスの商人』の最初の訳は『人肉質入裁判』やったと思う。
この話は、そんだけです。
「聖書」を大阪弁に翻訳したもんがあるそうで、こんな具合だそうです。
ひとはパンだけで生きるもんやあらへん
神さんの口から出る ひとつひとつのことばで生きるんや
聖書を大阪弁に訳した理由は知りません。
けど、真面目な意図があったとしても、やっぱりアカンと思います。
なんでかゆうたら、【神】が【神さん】になった時点で、路地の地藏さんと同じ位置になってしまうよう
な気がするからです
この話もこんだけです。
木下順二の『夕鶴』。
「つう」は標準語で「よひょう」や村人は土地の言葉で台詞が書かれてます。
「つう」と「よひょう」や村人は、ついには交じり合うこともなく終わります。
これは、「神」と「神さん」が全く違うもんという事と一緒やと思います。
鶴田浩二と大木実や丹波哲郎の関係とも同じやと思います。
標準語は、近代的な全てを生み出しましたけど、今まで以上にややこしくて、けったいなものを背負わさ
れているような気がしているのです。
その土地の言葉で暮らすという事は、けっこう幸せなことの様に思うたりします。
逆に、抽象的な事になってしもうた、いろんなもんを取り戻せるかも知れません
ようわかってない事書いてる気がしますので、終わります。
おまけで、辻潤の関西の印象です。「のつどる・ぬうどる」と相変わらず、わけわからん題名です。
自分は関西の方へ旅行をする度に感じることだが、どうしても自分がかれ等と同じ人種だとは考
えられない。(もちろん一般的にいっての話だ)第一言葉のアクセントから受ける感じだけでも
随分違うと思う。昔、フェニキアあたりの商業人種があの辺に移住したのではないかなどと自分
は時々そんな風に考えてみる。
監督が加藤泰で1965年の作品。
主演が鶴田浩二で藤純子、嵐寛寿郎、藤山寛美、津川雅彦、安部徹、大木実、丹波哲郎…。
むかし、佐藤忠男のヤクザ映画についての評論にこんなのがありました。
主人公=着流し=前の時代の人間に対して敵役=洋服=新しい時代の人間。
登場人物の人格がどうであろうと、時代から取り残されていく人間が、時代に後押しされてる人間に勝て
るわけもないのです。
死ぬ覚悟=殴りこみで自分たちが生きてきた世界を全うする。そんな事への郷愁がヤクザ映画が受ける理
由。こんなんだったと記憶してます。
なるほどなあと思ってたのですが、昨日もうひとつ気がついたのです。
それは言葉です。
鶴田浩二は関西弁で、大木実と丹波哲郎だけは標準語となってたのです。
もう少し詳しく見ると【洋服:着物】と【方言:標準語】は役どころに応じて明確に別けられており、そ
れが映画を面白くしてもいるのですけど、映画自体の話ではないので省略します。
映画は、線路上で抱き合う鶴田浩二と藤純子から、画面方向に走ってくる機関車を映して終わります。
機関車が何を意味しているのかがわかるような気がしました。
いつもの様に話が変わりますけど、島村洋子に『てなもんやシェイクスピア』って本があります。
例えば『近江の商人』。
「ローンズ・ちょっと貸したれ屋」の悪徳金貸し、佐井六輔(シャイロック)なんてのが登場します。
しっかり笑えます。
たしか、真面目な『ベニスの商人』の最初の訳は『人肉質入裁判』やったと思う。
この話は、そんだけです。
「聖書」を大阪弁に翻訳したもんがあるそうで、こんな具合だそうです。
ひとはパンだけで生きるもんやあらへん
神さんの口から出る ひとつひとつのことばで生きるんや
聖書を大阪弁に訳した理由は知りません。
けど、真面目な意図があったとしても、やっぱりアカンと思います。
なんでかゆうたら、【神】が【神さん】になった時点で、路地の地藏さんと同じ位置になってしまうよう
な気がするからです
この話もこんだけです。
木下順二の『夕鶴』。
「つう」は標準語で「よひょう」や村人は土地の言葉で台詞が書かれてます。
「つう」と「よひょう」や村人は、ついには交じり合うこともなく終わります。
これは、「神」と「神さん」が全く違うもんという事と一緒やと思います。
鶴田浩二と大木実や丹波哲郎の関係とも同じやと思います。
標準語は、近代的な全てを生み出しましたけど、今まで以上にややこしくて、けったいなものを背負わさ
れているような気がしているのです。
その土地の言葉で暮らすという事は、けっこう幸せなことの様に思うたりします。
逆に、抽象的な事になってしもうた、いろんなもんを取り戻せるかも知れません
ようわかってない事書いてる気がしますので、終わります。
おまけで、辻潤の関西の印象です。「のつどる・ぬうどる」と相変わらず、わけわからん題名です。
自分は関西の方へ旅行をする度に感じることだが、どうしても自分がかれ等と同じ人種だとは考
えられない。(もちろん一般的にいっての話だ)第一言葉のアクセントから受ける感じだけでも
随分違うと思う。昔、フェニキアあたりの商業人種があの辺に移住したのではないかなどと自分
は時々そんな風に考えてみる。