なにが私をこうさせたか・・・金子文子のこと

『何が私をこうさせたか』金子文子(筑摩叢書)を読んだ。

これで三回目。

一回目は、その体験そのものに圧倒されたに終わった。ずいぶん若い時だった。

二回目は、やや政治的に読んだ気がする。いろいろあった。

三度目の今回は、そういう息苦しさや思い込みなしで素直に読めた気がする。

歳を取っていくのも悪いもんじゃない。


鶴見俊輔による解説。そこには、こうしたことが書かれていた。

  獄中でこの人の書いた手記は、自分自身の手づくりの哲学を持っていたことを示している。

  大正から昭和にかけて数多くの日本人が石川啄木を読み、マックス・スティルナーを読んだ。

  大学生や教授たちとは、ちがう読み方を金子文子がしたことはたしかで、そのちがいは、文子

  の自決後に、スティルナーの読者たちに、辻潤のような例外を別として、おとずれた思想上の

  変化をしてあきらかになる。金子文子の手記が、日本の思想史の舞台の全体をてらしだす力を

  もつのはこの故である…


次のようなもの読めば、鶴見俊輔の書いていることが納得できる。

ここで金子文子は、いま、自分があること自体が自分であり、世界だという。

・・・唯一者がここにいる。


金子文子

私は私の体験からこう断言することが出来るんです。

人が死を怖れるのは、自分が永遠にこの地上から去るという事が悲しいんです。

言葉をかえていえば、人は地上のあらゆる現象を平素はなんとも意識していないかも知れないが、

実は自分そのものの内容なので、その内容を失ってしまうことが悲しんです。『何が私をこうさせたか』


たとえば


<M・シュティルナー

当の人間は、憧れの的である未来にあるのではなく、現に今ここに生存しているのである。たとえ僕が如

何様にあり、何者であろうとも、悦びに溢れていようと、悲しみに閉ざされていようと、また子供であろ

うと老人であろうと、安心していようと疑惑に陥っていようと、眠っていようと醒めていようと、僕はそ

れであり、本当の人間である。『唯一者とその所有』


たとえば


辻潤

即身成仏―とは自己を"as such"として単純に認識することである。一切の理想をかなぐり棄てた状態で

ある。『ふらぐまん・でずされと』


そんなところです。