山本作兵衛のこと
この頃、山本作兵衛や上野英信の名前を見かけることが多い気がする。
今日も朝日の読書欄に『追われゆく坑夫たち』のことを<大切な一冊>というコーナーで本橋成一という
写真家が書いていた。
まあ、そうは言っても今でも品切れや絶版が多いのは多いようだ。
山本作兵衛のことを検索していたら、ポレポレ東中野という所で「山本作兵衛展」を今日までやっていた
ようだった。
これは、『炭鉱(ヤマ)に生きる』という山本作兵衛氏の炭坑画をベースにして、明治から大正、昭和に
至る炭鉱の人々の生活を描いた映画が出来たらしくて、その映画に関連しての絵画展らしい。
ときどき、東京がうらやましかったりする。
◎映画→http://www.montage.co.jp/yama/
山本作兵衛さんは、1892年、福岡県筑豊炭田の中心地である嘉穂郡に生まれ、早くも七歳のころから親の
手伝いとして坑内にさがりはじめ、以来五十余年間を炭坑で働きとおされた老坑夫である。
その半世紀にわたるヤマの生活と労働を山本さんが絵にかきはじめたのは、1958年からのことであるが、
当時はまさに石炭産業合理化の嵐が決定的な打撃を筑豊に与え、ヤマも人も壊滅の一途をたどりつつある
まっただなかであった。(『骨を噛む』上野英信より)
山本作兵衛自身は「私の絵にはひとつだけ嘘がある。地底には光がないので色がない」と言う。
初期の作兵衛筆と墨だけで描いているが、後年になってその地底の光景に作兵衛さんは光を与え、極彩色
で描くようになったそうだ。
◎<九州工業大学情報工学部筑豊歴史写真ギャラリー>で検索したら絵を観る事が出来ます。
→http://search2.libi.kyutech.ac.jp/servlet/Form?id=264 (こんな絵です)
よく、炭鉱の話などを「昔はひどかった」的に考える方がおられますが、今も底辺の人間の扱いはほとん
ど変わってはいないです。
はい。
今日も朝日の読書欄に『追われゆく坑夫たち』のことを<大切な一冊>というコーナーで本橋成一という
写真家が書いていた。
まあ、そうは言っても今でも品切れや絶版が多いのは多いようだ。
山本作兵衛のことを検索していたら、ポレポレ東中野という所で「山本作兵衛展」を今日までやっていた
ようだった。
これは、『炭鉱(ヤマ)に生きる』という山本作兵衛氏の炭坑画をベースにして、明治から大正、昭和に
至る炭鉱の人々の生活を描いた映画が出来たらしくて、その映画に関連しての絵画展らしい。
ときどき、東京がうらやましかったりする。
◎映画→http://www.montage.co.jp/yama/
山本作兵衛さんは、1892年、福岡県筑豊炭田の中心地である嘉穂郡に生まれ、早くも七歳のころから親の
手伝いとして坑内にさがりはじめ、以来五十余年間を炭坑で働きとおされた老坑夫である。
その半世紀にわたるヤマの生活と労働を山本さんが絵にかきはじめたのは、1958年からのことであるが、
当時はまさに石炭産業合理化の嵐が決定的な打撃を筑豊に与え、ヤマも人も壊滅の一途をたどりつつある
まっただなかであった。(『骨を噛む』上野英信より)
山本作兵衛自身は「私の絵にはひとつだけ嘘がある。地底には光がないので色がない」と言う。
初期の作兵衛筆と墨だけで描いているが、後年になってその地底の光景に作兵衛さんは光を与え、極彩色
で描くようになったそうだ。
◎<九州工業大学情報工学部筑豊歴史写真ギャラリー>で検索したら絵を観る事が出来ます。
→http://search2.libi.kyutech.ac.jp/servlet/Form?id=264 (こんな絵です)
よく、炭鉱の話などを「昔はひどかった」的に考える方がおられますが、今も底辺の人間の扱いはほとん
ど変わってはいないです。
はい。