オキュバイド・ジャパン

日本なんて、どうせ、いっぺん亡んだ国や。当たり前ならいま頃は、太平洋の底に沈んでしもうてるはず

のを、アメリカのおナサケで、こうして助かってるんや、まさにデカダンスだよ!民主主義もクソもある

もんか!いきなりデカダンスへ行くべきだよ!デカダンスから始めるんだよ!

                         青山光二『青春の賭け-小説・織田作之助

戦後、無頼派と呼ばれた作家たちがいた。

無頼派(ぶらいは)は太平洋戦争後、近代の既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群

の作家たちを総称する呼び方とWikipediaに書いてある。

織田作之助無頼派とされる。


川村湊の仕事がある。

『「酔いどれ船」の青春―もう一つの戦中・戦後』における朝鮮。

『異郷の昭和文学-「満州」と近代日本』における満州

『南洋・樺太の日本文学』における南洋群島、北方。

『風を読む水に書く-マイノリティー文学論』でのアイヌ文学、沖縄文学から公害病患者、原爆被災者、ハンセ

ン病患者。

川村湊の「外地」の日本文学=植民地文学の発掘と再検討は、こんな具合にその対象を延長させてきた。

『作文のなかの大日本帝国』で川村湊はこう書いている。

「人間に対する最大の強制とは、それがあたかも自分たちの自発的な意志であるかのように本人たちが錯

覚してしまうということ」。

『海を渡った日本語-植民地の「国語の時間」』で、母語を収奪し日本語を「国語」として強要する様子

を描き、『作文の中の大日本帝国』では、内面化された帝国主義が「自発的」な「綴り方」として表現さ

れる様子が描かれている。


ところで、川村湊が『大阪という植民地』というのを書いている。

川村は織田作の描く架空の街「大阪」は、織田作自身の最後の砦ではなかったかと考える。


・・・もはや、「東京に対する大阪」といった二項対立はない。近代日本に植民地化された「大阪」は、

少なくとも日本全体がアメリカによって占領され、殖民地化された時に、解消されたのだから。むろんそ

れはもっと広い帝国主義-植民地の版図の中に、大阪が包摂されたということにほかならない。

「大阪」がないように、「日本」もない。西鶴の描いた「大阪」も、戦争中の日本人が必死の思い

で作り上げようとした「日本」も、もちろん、その解放や独立や共栄を日本人たちが鼓吹した、「大東

亜」というものもなかった。その絶望感、デカダンス織田作之助を最後の「神風」特攻隊として、戦後

において自爆せしめたのかもしれない。・・・(『大阪という植民地』より)



川村湊の目線で行くと、織田作も太宰も無頼派の面々の作品はオキュバイド・ジャパンの文学といえるの

だろうか?「文学」そのものに弱いからわからんけど、そうかも知らんという気がする。

幸か不幸か知らんけど「日本語」は残った。


ところで、満州王国なんてもんがあったころ、中国で日本文学を目指したり研究した人たちを何て呼んだ

のか忘れてしまった。

少し前に本が出てたような気もするけど、書名も忘れた。メモにもPCにも残っていない。

漢匪だったと思うけど?


誰か教えてください。m(__)m