ブギウギと黒澤映画

昨日、『羅生門』をテレビでやってたけど細切れにしか観れなかった。

オトンが角淳一病になってしまったのだ。

「私は角淳一です。あなたはどなたでしょうか?」

これをしつこく繰り返したのだ。もちろん自分のことを角淳一とは言えへんけども。

え~と、角淳一はこんな人です→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E6%B7%B3%E4%B8%80

羅生門』ちゃんと観れなくて、ちょっと残念だった。


ほんでも、黒澤映画ってやっぱりモノクロのイメージが強い。好きな黒澤映画をみんなに聞いてもたぶん

モノクロに集中すると思う。

私はカラーでは『デルス・ウザーラ』がええなあ思うたけど。

やっぱり、カラーの頃には「巨匠」のイメージが出来上がってしもうて、観るほうも意識しすぎなとこも

あったんやろか?といらん事考えたりもする。


検索してみたら『羅生門』の次の監督作品が『白痴』になってた。

iyhs0114さん(ブログ名は遠い蒼空)も認める男前、森雅之が主演だ。森雅之の父は小説家の有島武郎

ったりする。

じつは『白痴』をもう一回観たいと思うてる。

黒澤がドストをどう解釈してたのか?改めて知りたかったりする。


で、いつものように話は飛ぶけど(もう十分飛んでるけど)、ドストエフスキーの『白痴』のことだ。

辻潤ヘルマン・ヘッセの『白痴は予言する』を訳している。

これはもちろん、ドストの『白痴』についてにヘッセが書いたものだ。

この訳の終わりに、辻潤はこんなことを書いている。

  ムイシュキンは、まことに「白痴」でもあろう。しかも立派な「超人」でもある。この「超人」

  は、ニイチェ風な鬼面人を威嚇するというところがなく、温顔で、春風胎動として、当人も、

  至極楽々としているのである。しかし、英雄や、天才や、なにか「権力意志」といったものの好

  きな人達は、恐らく、かくの如き人物では満足できないであろう。

ヘッセ自身は『白痴は予言する』でこんな事を書いている。
 
  人間の教養を土台としてみた最高の現実は世界を光と闇に、善と悪に、また許されたる物と禁ぜ

  られたる物とに分かつことである。ムイシュキンにとっての最高の現実は一切の制度をてんぷく

  し、一切の道徳的価値と等しい存在を経験することである。結局、白痴は無意識界の母権を誘導

  し、文明を粉微塵に粉砕する人間である。彼は律法の掟を破るものではなく、単にそれを裏返し

  て、その反対も等しく記されていることを人々に示すばかりである。


えらい話が飛んでしもうた。

ブギウギと黒澤の話やった。

黒澤の『酔いどれ天使』で笠置シズ子の『ジャングル・ブギ』が出てくるけど、『野良犬』でも『東京ブ

ギウギ』が流れたり、『生きる』でもピアニストがキャバレーのような所でブギウギを演奏する場面があ

ったりする。

ほんでも、どうも黒澤の中ではブギウギとか大衆音楽的なものは堕落、退廃、軽薄、全部まとめて低俗の

音として扱われている気がするのだ。

何でかと言うと、上の三つの作品で、大衆音楽は演奏者がいたりする現実の演奏として流れているのだけ

ども、それに対して、クラッシックみたいなものは、あくまでバックの音として場面に関係なく流された

りしているからだ。

前から気になっていたのやけども、少し前に読んだ『戦後日本のジャズ文化』でマイク・モラスキーとい

う人も書いてたので、やっぱりと思うたりした。


今日も話があちゃこちゃしました。すんませんです。