ふつう以上

辻潤―芸術と病理』という本がある。

著者は三島寛。辻潤の盟友である武林無想庵実弟精神科医

同じように『辻潤―個に生きる』の著書がある高木護が三島氏を訪ねたときの事。

辻も入院していた、慈雲堂病院にまだ三島寛が勤めていた頃だ。

高木が「私も入院してみたくなった」と言うと、三島氏はこう返したと高木護の本にある。


「ここはふつうの人では駄目です。ふつう以上の人でなければ―」


もちろん、三島は真面目に答えているのだ。

なら、ふつう以上とは経済状態を指すのか?それとも精神状態か?

時々どっちやろ?と思ったりする。


「私はニヒリスティックに現代を肯定して生きている人間だ、もちろん、肯定せずには一日だって生きて

いられる筈はない」と辻潤は書く。

人は生きている以上、一秒の休みもなく、自分と他者、自分と社会に直面する。

現実は矛盾だらけだ。

そんな中、ただ理性だけで生きようとすれば全てが矛盾しているこの現実を前に狂人となるしかない。

矛盾の海でしかないこの世で、その矛盾を感じるその人自身が矛盾の持ち主として、この世と妥協してい

くしかない。


「もはや一切の不合理も気にならん」と辻潤は書く。この辺りが辻潤ワールドの入り口だ。


大杉栄は「自然と戦い、社会と戦う、げに戦いは人生の華である」と書く。

だけど、大杉はひとつ言い忘れている。

それは自分が自分の矛盾と戦う?ということかと思ったりする。


社会が狂っていたとされる「太平洋戦争」(あえて括弧をつける)中に狂っていた辻潤

どちらが狂人か?

社会か辻潤か???