森 繁 病
返して見た。
以下は、小林信彦『日本の喜劇人』(1994年、新潮社文庫)のからの要約です。
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<森繁病>と私が読んでいるこの病状は、まず、一人の喜劇人が、彼を売り出すに至った<動き>を止め
ることに始まる。
そのうち、ヒステリーみたいに、「ぼくはコメディアンじゃないんです!」などと叫び出す。
「じゃ、君は何なんだ?」と反論せざるを得ない。相手は。はすっかいに、うかがうような目つきで、こ
ちらを見て、「何つうかなあ…哀愁がないんですよ。ぼくの演技には…」
これが第一期。
第二期は、その存在理由であるところの珍芸、扮装、奇抜な動きをぜんぶやめてしまい、それをどうして
もやらねばならぬときは、しぶしぶ、ふてくされてやる。
(まだ、こんなこと、やってます…)といった、照れた、しかし若干、誇らしげな眼でこちらを見る。
第三期になると、赤ん坊を抱いたり、踊り子や花売り娘を遠くから眺め、夜道をとぼとぼと去っていくピ
エロといった役を、大張り切りで演じるようになる。泣きベソをかいたような顔をアップで撮って欲しい
と注文する。チャップリンは、自分の年齢のとき何をしていたろうかと考え、自分は、だいぶモリシゲに
追いついてきた、とひとりうなづいたりする。
そのタレントは人気を失っていく。(モリシゲは、運がよかったんだ!)と心の中で叫びながら。
・・・以上は、<森繁病>を一つのパターンとしてまとめてみたもので、ひとによって少しずつ病状は変
わるのである。
に発している。
東宝新劇団の一員としてキャリアを始めている森繁は、いわゆるコメディアンにはなる気がなかったとい
うことである。あったとしたら、昭和十一年当時なら、まず浅草に行っている。
伴淳三郎が語っているところによると、彼が若いころ、<活動役者>は<タネトリ>と呼ばれたそうであ
る。<喜劇役者>は<タネトリのコッケイ>だそうで、「コッケイがきた」というふうに言われたそうで
ある。
ジャーナリスト出身で、批評家だった古川緑波を別とすれば、日本の喜劇人は、おおむね、この「コッケ
イがきた」的な扱いを受け、ある種の差別意識に悩まされていたことは確実である。
森繁久弥も、彼なりの長い下積み(ほぼ十五年)と屈折した想いはあったにちがいないのだが、<だれだ
れの弟子>といった形ではなく、なにか、きのうまで、そこらのサラリーマンだった男が、すっと芸界に
入ってきた、といった感じで登場した。
『夫婦善哉』で、<性格俳優>に一変したのだから、当時、ストリップ小屋でかろうじて口を糊してい
た、多くのコメディアンたちが、(あれこそ、おのれの行くべき道だ)と思いこんだのは、ある意味で
は、自然なのである。
特に堺駿二については、「この人は、森繁とはまったく、縁のない存在であった。ひたすら明るく、たの
しい演技である。こういう人が、挫折していくのは、日本だけの現象であろうか」と小林は書いている。
また、渥美清については、森繁を自己流に消化した役者としている。
・・・そして、森繁の存在は、むしろあとからくる日本の喜劇人たちの、生理のみならず、生き方をも、
ときとして、狂わせてしまったのである。
森繁のつくった、喜劇人の一つの像(在り方)を越えるのは、容易ではあるまいと、私は実感した。
-小林信彦『日本の喜劇人』から要約
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魚が橋の上にとび上がって、ぴょんぴょんとび歩くギャグを考えていたら、マルクス兄弟が同じようなギ
ャグをやっていて驚いたという話だ。
但し、マルクス兄弟のギャグは、橋の上の魚が、もう一度川に落ちて溺死するというオチだったとある。
<涙と笑い>は森繁以降もどこかで継承されている。
マルクス兄弟のような<狂気の笑い>はどうなんやろ・・・。
そんな話でした。