秋田實の『転向』
秋田は、中学時代から、早熟な「文学青年」藤沢らのなかではアイデンティティー(自分らしいもの)を 見つけることはできなかったし、大学時代の左翼活動でもそれを見つけぬままですごしてしまったのでは ないか。 「辻馬車」の小説では「純文学」を目ざしているが、ただちに左翼思想のプロバガンダとして「小説」と いうカタチを利用したのであって、その小説=文学志向は、彼の根としての文化に支えられていない。 またその左翼活動も、青年の知的好奇心と正義感から出発してはいても、父母の生活、即ち、万年「職 工」の父親と裁縫を教える母親のもつ生活文化を反映していない。 父母の生活文化とかけ離れたところで正義感に支えられた、知識の実践として左翼活動は行われている。 それが、「低級で無教養」な漫才師たちにとりかこまれて「大将」となると、秋田は、正義感や知識でな く、自分の生活文化で勝負しなくてはならなくなる。 つまり、秋田は、いや応なく「低級で無教養」な漫才師たちには、左翼活動家でも東大生でもなく、漫才 が好きで、漫才のネタをたくさんつくってもっている、大阪の地下(ジゲ)の人間としてつき合わざるを えなくなる。 秋田ははじめて「大衆」とジカに出会ったのだ。「大衆」の利用価値のある人間として、秋田はかつがれ ることになったのだ。秋田はこのことをはっきりと実感したにちがいない。 -富岡多恵子『漫才作家 秋田實』より。
これ、吉本隆明の「転向論」のサンプルみたいな話やなあ。
そんだけ。