『水島流吉の覚書』
【ようこそ稀覯本の世界へ】というHPの中の「文學アルバム」に掲載されております。
どれも、私には、いい写真です。
このころの辻潤。
松尾季子に宛てた葉書にこんなことを書いております。
辻潤は非凡閣人名辞典にもあるように死んでしまったが、「水島流吉」は生きている。
尺八を吹いて、相変わらず乞食生活を続けている。
まだ生きてるのに、文壇的には人名碌で「死亡」と書かかれたりしてます。
その頃、書いたものに『水島流吉の覚書』があります。水島流吉は辻潤が晩年によく使った名前です。
こんなことを書いてたりします。
生きてることになんの疑問もなく、自分の与えられた職業に従事し、至極満足して死ぬまで いきられたらそれにこしたことはあるまい。 生きている間でさえ、なにがなんだかよくわからないのだから、いわんや死んでから先のこ となどわかる道理はない。 (略) 雨の音がきこえて来た。今までよく晴れて、月も星も見えていたのに雨が降ってきた。別に 不思議なこともない。 自分は永遠の刹那だ。宇宙万象のカケラでもある。カケラとして完全である。矛盾のかたま りである。電子(エレクトロン)の化物である。物質であり、精神であり、滅不滅であり、一切で あり、独自であり、なんでありかんである。 (略) くだらない夢を見た時は、つくづく自分という人間があさましくなる。しかし時々は美しい 夢も見る。そんな時にはいくらか自信を回復する。 自分の正体はわからない。人格は二重でも三重でもある。どれがほんとうの自分だかよくわ からない。一切が自分を存在させている要素だと思うと、どれもみんなほんとうのような気 がする。 お天気のようなものだ。晴れている時が、お天気の正体で曇ったり、雨が降ったり、風が吹 いたりする時は正体でないというような考えは、みんな理想主義者のようなものだ。 (略) 宇宙や人生や一切のことは、到底人間の頭などでは解釈の出来ぬものだ、というのが私の信 仰である。 自分は万物の霊長だなどという自惚れは、ケチリンも持ち合わせていない。 私は自分以外の生物を一度も軽蔑したこともなく、むしろかれ等の方が人間以上に自然に生 活していると、時に羨望の念のおこることさえある。しかし、別段鳥にも虫にもなりたいと は思わない。 -『水島流吉の覚書』昭和十八年「書物展望」掲載。
きょうは、【ようこそ稀覯本の世界へ】掲載の写真を、何度も見てた。
いろいろ思ったりもした。
そんだけ。