『Mの出家とIの死』

 僕は自分が病人であり、貧人であり、低人であるが故に、自分と同じような人々と苦悩や悲哀を

 分かちあいたいと思っているだけだ。(『Mの出家とIの死』)

辻潤はこんなことを書いている。


ようするに、辻潤は、自分の苦しみを書くことで、他人の苦しみを癒そうとしてるのだ。

そう、私は思っている。

間違いなく、私はこの何十年か,辻潤に癒され、慰められたと思う。

五十を過ぎて、スッカラカンになり、せっせと集めていた、辻潤関連の本も全て手放して(その金は、結

局飲み代になってもうたけど)、体一つでアホ友達の事務所に転がり込んだときもそうだった。

頭の中で、「ツジジュン」と呟き、「一切は生きてる上の話だ」なんて、辻潤の書いたものを思い出すだ

けで、なんや知らんけど気持ちが温くなったのだ。


「何にもならないことには頭を使うな」とか「理性的に考えようとすれば死ぬより手がなくなる」なんて

事を辻潤は書く。

そういうことなのだ。

例えば、金持ちの家に生まれてたら、例えば、もっと男前に生まれてたら・・・。

そんな、自分の所有しないものを望んでもしようがないのだ。

意のままに出来ないことは望んでもしようがないのだ。生き死にがそうであるようにだ。

だから、どうにもならない事は、さっさと手放して、自分が持ってるもので、やっていくだけのことだ。


 芥川君の死んだ時も、平常辻潤とでもつき合って酒でも飲んで馬鹿馬鹿しいことでも話し合って

 いたら、死なずにすんだにちがいないと考えた。春月君ももう少し晩年辻潤と洒でもしばしば飲

 んで、不純な気持ちを訓育したらもっと生きていたかも知れん。

 -略-

 諸行は無常だ、自然はまことに残酷だ、考えると飲酒はもっとも狡猾にして、カンマンな一種の

 自殺だ。

 しかし僕の如き弱者は、生きる上でそれ以上のよりよき方法を発見し得ない。

 あるなら教えてくれ!(『Mの出家とIの死』)

辻潤はこんなことも書いている。


どうにもならないことは、さっさと手放すがいい。そんなことはわかっていても、現実は年中無休の24時

間営業で、しつこく迫ってくる。

手放しても、手放しても、しつこく迫ってくる。

辻潤は、それを手放すために、酒を飲み続けた気がしている。

辻潤は「どうにもならないこと」を、命がけで考えないようにして生きた人かも知らん。


少し、長いですが『Mの出家とIの死』から引いておきます。

何度か書きましたが、M=宮嶋資夫は出家し、I=生田春月は自死しております。

どちらでもなかった、辻潤は、自分で言ってるとおり「酒によるカンマンな一種の自殺」を迎えます。

要するに、「天狗」となり「餓死」します。

どうも、私はこんな具合な辻潤に惹かれているように思うたりします。


では、辻潤の『Mの出家とIの死』から抜粋します。


 春月君は如何にも可憐な理想家で、いつでも彼の純情をいたわっていた。もちろん、充分覚悟の

 上の死で、かねてからの君の理想を実行したわけで、ハタからとやかくいうことはない。実に立

 派だ。僕はむしろ羨望に耐えん。それになにより好いことは子孫のないことだ。それに花世さん

 もひとりで立派に生活が出来る方だ。少しも悲しむことはない。春月君の遺稿をゆっくり充分と

 整理されることが一番死んだ夫君の霊を慰めるというものだ。

 春月君の長篇創作『相寄る霊魂』の主人公もたしかどこかの海へ投じて死んだ筈だ、海で死ぬこ

 とが、氏のロマンチシズムであったらしい。
 
 震災後まもなく僕の出した「ですペら」という文集があるが、氏はそれを愛読してくれたらしい

 がある時、話のついでに「君の本を持ってこないだ江ノ島鎌倉の方を歩いていたら、恐ろしく自

 殺の誘惑を感じた。どうも君の本を読むことはこわい-」といった。「そうかな-」と、僕はひ

 そかに、自分の書いたものが左程までに魅力があるのかと内心ひそかに得意にかんじたことであ

 った。実は僕の方からいえば自殺などしようと思っている人間が読んだら、死なずにすむにちが

 いないと考えているのだ。自分は自分の人生観を極めて露骨に表現している、僕は自分の抱いて

 いるニヒリズムのお蔭で生きていられると自分では考えているのだ。

 僕の愛読者には病人や貧乏人や片輪者や低人が多い、-僕はむしろそれを誇りにしている。ほん

 のわずか一時問でも三十分でも僕の書いた物を読んで慰められる気が転じたとすれば、僕のミッ

 ションは果たされている。僕は自分が病人であり、貧人であり、低人であるが故に、自分と同じ

 ような人々と苦悩や悲哀を分かちあいたいと思っているだけだ。金持ちやスポーツのチャンピオ

 ンや、ゼゲンや、相場師に愛読されることはこっちから御免蒙りたい。

 僕の二月からやっている「ニヒル」という雑誌に、春月君は毎号詩を寄稿してくれた。いずれも

 最近の心境をよく表わしている。二月の末に、珍しく萩原朔太郎君と二人で僕のところを尋ねて

 くれた。それから最近仕事が片づいたら一度尋ねたいという手紙をもらった。僕も行きたいと思

 いながら、とうとう機会を逸してしまった。

 春月君は辻潤に対してかなり好意を持ってくれていた。まことに申し訳ない次第だが、僕の方は

 僕の友情に対してはなはだ無頓着過ぎた。こんどもせめて「ニヒル」の四号を、春月君追悼号に

 する位なことしきゃ出来ん。

 芥川君の死んだ時も、平常辻潤とでもつき合って酒でも飲んで馬鹿馬鹿しいことでも話し合って

 いたら、死なずにすんだにちがいないと考えた。春月君ももう少し晩年辻潤と洒でもしばしば飲

 んで、不純な気持ちを訓育したらもっと生きていたかも知れん。

 しかしどっちがいいかわるいかそれは僕にはわからん。どっちでもかまわん。

 宮島君も思い切って坊主になった。春月君も思い切って自決した。悲愴だ、ヒロイックだ-二人

 とも僕なんかとうてい及びもつかない熱情を持っている。

 僕はずいぶんわがまま勝手な生活をしてきたが、しかし、おふくろやこどものいる問はやっぱり

 かれ等の生活を十分の二なり三なり生きなければならない。かれ等が生きているのは僕がどの位

 かの程度で自分を犠牲にしているわけだ。もっともかれ等の立場から考えたら、かれ等こそ辻瀾

 のひどい犠牲になっているわけだ。しかしこれが生物のアイヨンローという奴で、弱者がいつで

 も強者にいじめられるのだ。自然はどこを見渡しても「イタチゴツコ、ネズミゴツコ」だ。
 
 宮島君が坊主の修業を積まれてエラクなったら、僕はいつでも弟子になるつもりだ。なんにせよ

 古い友達をひとりでも二人でも失うことは寂しいことだ。そのうちおふくろも死ぬことだろう。

 諸行は無常だ、自然はまことに残酷だ、考えると飲酒はもっとも狡猾にして、カンマンな一種の

 自殺だ。

 しかし僕の如き弱者は、生きる上でそれ以上のよりよき方法を発見し得ない。

 あるなら教えてくれ!