めいにち
辻潤の命日を陀仙忌というそうです。
11月24日が近づきましたので<再上映>します。(2008.11.11)
* * * * * * * * * * * *
そういえば、11月24日は辻潤の命日やった。
命日といっても、誰かに看取られながら息を引き取ったわけでもない。
・・・11月24日 静怡寮で虱にまみれて死んでいるのが桑原夫人により発見される。警察医は狭心症として処
理したが餓死とも言われる。・・・【辻潤のひびき・年譜】より。
こんな具合な最後だったようだ。
「死ぬ時は鰻を食って死にたい」と金子光晴に言ったとあるが、食えなかっただろう。
1944年の11月24日。
この日はアメリカ空軍のB29が初めて東京に爆弾を落とした日でもあるのだ。
鰻にとっても迷惑な日々が始まったのだ。
ところで、辻潤は自分が気に入ったものだけを翻訳した。
例えばロンブローゾの『天才論』であり、シュティルナーの『唯一者とその所有』だ。
アブラハム・カノヴィッチの『美への意志-ショーペンハウエルとニイチェ哲学の継続』。
「やっとこの春、京都で、自分が興味をそそるに足る本を見つけた」と興奮した調子で、菅野青顔に宛て
た手紙に書いていた本だ。
で焼けてしまったらしい。
それにしても、餓死しながらも、最期の翻訳の書名が『美への意志』なのが辻潤らしい気がする。
私は、辻潤は静かな最期だったように思う。
辻潤は真面目な人だ。
それは、真面目に父親の役割を果たしたということではない。
真面目に社会人として仕事をこなしたということでもない。
「お互い誠実に生きよう」と、息子のまことに言い、まことも「一寸、まいったのである」。
私も、こんな言葉を辻潤から言われると、まいるのである。
ところで、辻潤が生きてた頃も今も、変ってないことがある。
真面目な父親や社会人や国民であろうとする前に、自分に真面目であろうとする。
そこに待っているのは、とりあえずのビンボーであり、人を生きにくくさせる様な、ありとあらゆるのも
のということだ。
ロクでもないのだ。
ニンゲンの作った社会は。
●『父親と息子』(辻まこと)より
彼(辻潤)は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された。 辻潤は佯狂だという人がいる。しかし佯狂もまた狂気であると私はおもう。 佯狂の様に見えたのは、彼の場合に百パーセントの狂人ではなく、狂気と正気が共棲していたた めだ。機能障害による狂気ではないからだ。おそらく精神が自衛上採用した最後の手段だったと おもう。 最初の発作が起こった時(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるため、やっ とのおもいで自動車に乗せた。その時私は行き先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は 私にこういった。 ― お互い誠実に生きよう。 彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生 きようとしているのだ」といっていたのだ。一寸まいったのである。 日常の現象生活というものは、いつの時代だって個人に挑戦してくる。量的世界の体制は、その 組織と観念を認めるものだけをゆるす。コミュニズム、ファシズム、アナーキズム、等々の差異 は、ひっきょう一人の人間の生命に抽象的に生まれた美と真実の質的世界から見れば、比較的重 要ならざる差異であって、等しく無縁なものだ。 辻潤はキリストではない。 彼は人間を救済する使命を抱くほど宗教的ではない。彼は超絶対的な世界観すら拒否した正直な 男だった。彼が挑戦に応えて試みた方法は、表象されたありのままの自己だけだった。 自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意していたのだ。これが辻潤の 美学だったと私はおもう。 ショーペンハウエル流な「意志」の権化から生まれた自我意識の世界から見れば、これほどはじ めから勝敗の明らかな闘争もないであろう。屠殺を経験するために自らおもむく牛のようなもの だった。 彼は試みたのだ。人間がそれを試みてみた証拠をともかく辻潤は残した。 彼は「彼」以外であることを拒否する「勘」を所有して生きてきた。 その存在の意味は、彼には不要なものだった。意味はあとに残されるものだ。 息子という不利な条件においても、私はその意味が自分のかたわらに置かれたことを好機と思っ ている。 辻潤はも早一つの意味だ。意味だとおもうものにとってのみ・・・。 従って私は辻潤の無名性を高く評価する。 無名は彼の真価の証明だ。彼の王国はマーケットからずっと遠い。 -辻まこと『父親と息子』(一部要約)より