親子「酒」

   
いちにちの大半を台所で過ごしている。


台所に立っていた主婦が、唐突に永遠が見えた・・・というような話が、コリン・ウィルソンの『至高体

験』にあった気がする。

自伝によれば、コリン・ウィルソンは若い時に、死のうとして死ななかったらしい。

だから、きっと優しい人だ。


で、私は台所に立っても「永遠」が見えるかどうかはわからんけど、とりあえず爺さんは見えている。

少し前から、爺さんを視界に置いとかないとアカンようになった。

それが一過性のことなのかどうかは知らんし、どっちでもいい。


前は、離れたところにいても「音」で何をしているかはわかった。

今、爺さんの部屋から聞こえてくる「音」に生活を感じることはない。

例えば、セシル・テイラーのピアノは、やっぱり音楽だしジャズのルール上にある。

でも、今の爺さんからは、生活のルール上の「音」はしなくなった。


私が誰だかわからなくなっても、親子だ。

だから、私に怒られると、爺さんは傷つく。

血が繋がっているというのは、どっかで息詰まり、行き詰まる。


例年通り、酒屋がサービスで酒粕を持ってきた。

なかなかの品物らしい。

瓶のビールや酒を頼む家庭も少なくなっているそうだ。


粕汁を作った。

里芋は小さくても半分にする。そうしないと爺さんは食えなくなっている。

「自分が食う」でなく「人が食う」を作るは歓びがある。

酒粕を入れすぎたのか、爺さんの顔が真っ赤になってる。

息子と違って、爺さんは酒は呑まない。


ところで、酒粕は焼くと酒の肴に最高のものの一つだ。

当然やけど粕汁を作りながら、そうした。

酒は上等ではない。酒粕の方が上等なのは間違いない。

けど、やっぱり酒は呑んだら酔う。


酒と酒粕だから、「親子丼」みたいに「親子酒」ということになるのか。

いや、この酒と酒粕は別物だ。

この酒から作った酒粕ではない。

だから「他人酒」と言うべきなのだ。


ん?


前にも書いたけど「親子丼」だってそうなのだ。

その鶏が生んだ卵で作らない限り、正確には「親子丼」ではないのだ。




久し振りの記事やけど、オチに切れがないなぁ。


そんだけ。