サケとシャケ

粕汁のことを書いてて思うた。

粕汁に「鮭」は必須アイテムだ。


で、その「鮭」の呼び方の話。

私はこれまで、こんな具合に使っていた。

鮭=サケ。

この場合は、鮭が「ふん、お前なんか知らんでぇ」、「何ジロジロ見とんねん」といった具合に、鮭は私

らに関係なく生きている状態。

鮭=シャケ。

この場合は、鮭が「しゃぁないなぁ、食われたらぁ」とか「ワシなぁ、お前に食われる為に生きてきたん

ちゃうぞ」という状態。


なんでか、しゅーまんさんも書いてはったけど、「七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でもね、結局スープの出

汁になっちまったんだよ 」...という『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里)を思い出した。


話を戻して、ニンゲンの食いもんであるのが「シャケ」で、そうでない場合を「サケ」と思ってたのだ。


ところが、そうでもないみたいだ。

nichiroのHP【サーモンミュージアム】。その中にある<サケの方言>を見た。

鮭には、アキアジとかサケノヨとかいろいろな方言もあるみたいや。

で、大阪やけど、大阪府=サケで、何故か岸和田=シャケとなっている。

なんで岸和田だけがシャケやねん?

ほんなら、岸和田は貝塚や和泉や泉南泉佐野に囲まれながらも「シャケ」という言い方を貫き、そのた

め「だんじり」やってんのやろか?

気になってしゃぁないのだ。


で、そんな話になんの関係もなく、辻潤に『書物と鮭』がある。

こんなの。
 今一例を挙げてみれば僕は生まれてから魚の中で一番多く何を食ったかと訊ねられれば、スグ

 「鮭」だと明瞭に答え得る程その魚が好きなのである。もちろん蛙にもウマイのとマズイのとが

 ある。ここで鮭というのは、自分が食べてウマイと感ずる方の鮭を指していうのである。それな

 ら僕は毎日ウマイというので蛙ばかり食っているかというと、そんなバカ気たことはない。
 
 鮭が好きだという ことは鮭以外の魚がきらいだということではない。

 まして魚以外のものが嫌いだということはなお更ない。ここにこの鮭の例を挙げたのは僕が滋養物

 本位でないということを読む人に呑み込んでおいてもらえばそれでいいのである。「塩鮭」が滋養

 になるということは、世間一般にはあまりいわれてはいないようである。
 
 しかしその是非はとにかく僕はそれをウマイと思うのでよく食べる。そしてウマイから僕の肉体に

 も滋養になるのだろうなどと考えてみる。結局僕の肉体が鮭を欲求することは、現在において絶対

 の真理である。

 僕は自分のウマイと感ずるものを自分一人で食べることに、寂しさと不満とを感じないものではな

 い。やはり自分の愛する人々に自分がウマイと感ずる鮭を食べさしたいと一応は思うが、果たして

 それ等の人々が蛙を自分のようにウマがって食べるか否かということは、全然別問題であることを

 感ぜずにはいられない。

 「君は鮭がお好きですか?」と尋ねて「好きです」といわれれば、少なくとも鮭が好きだという点

 だけでは、同趣味の人だと思ってうれしい気持ちはするが、「きらいです」という答えを聞いて、

 後から「彼奴は鮭がキライだという。実に話せない奴だ」などと馬鹿気た陰口をきく人間では

 ない。

 矢代という人は展覧会の評の中で「芸術論争の結局の行き当たりは個人差、否でも応でも個人差で

 ある。私はある画が好き私はその画が嫌い、これは千言万語を費やして最後に残る、そして如何に

 も議論では飛び越す事の出来ない論理的溝である」といった。
 
 これは今僕のいおうとしている考えなのである。

 僕は各自が真に自分のスキな物をスキと明言し、キライなものをキライであると明言することに

 よって、自分とスキ、キライを異にする故をもってその人を憎み、あるいは軽蔑することは出来

 ない。

こんな具合に、終わりの方は、いつもの辻節が始まっている。

ところで、辻潤シュティルナーの『唯一者とその所有』によって、「自分の態度が決まった」と書いて

いる。

しかし、シュティルナーに出会う前から、辻節は始まっているのだ。

辻潤が初めて訳した、ロンブローゾの『天才論』。

この序文の「思うまま」を読むと、そのことがよくわかる。


で、その話はいずれまた。


ほな。