家の中の「辻潤」

以下は、辻まことの『おやじについて』からの引用です。

辻潤は、実像が判らなくなるほどに逸話で語られることが多いですので、長いですけど引いてみました。

 すべての倅にとって、おやじとは、煙ったい人物の代名詞かも知れないが、私の場合はまた別様な

  意味で、おやじは、はなはだ煙ったい存在だった。

 それはつまり父親としての煙ったさではなく「人間」としての煙ったさだった…とおもう。

 私だけではなく、家族のすべてが、そう感じていた。そこで生れ、そこで育ち、そこの家長であり

 ながら、辻潤氏は、家族にとってストレンジャアであり、見知らぬ人だった。けっして家族にはな

 れなかった。

 おやじは自分でも十分にそれを意識していたので、いつも孤独を養うことのできる二階のある家を

 えらんでいた。そうして他から自分を遮断していた。

 私の記憶に刻印されて明白な印象は、そのような二階の部屋に坐って茫漠とゴールデンバットの烟

 りを吐いている姿だ。部屋は昼間でも雨戸を半ば閉して穴暗く、夜は電灯に蒼い布を覆って、わず

 かに机上に光を直射させていた。

「考えを追求する精神」はどこか非常に遠くへ行ってしまって、矢鱈に烟りを吐いている肉体はぬけ

 ガラとなって実在を失っている-かと感じられた。古い洋書のもつペダンチックなインクとカビの

 におい。丸入の「梅ヶ香」の陰気なにおい。しみこんだタバコのにおい。最後におやじの体臭。そ

 れはいれまじってメタフィジィクな雰囲気を構成していた。

 ちょうどこの部屋のように、おやじもまた、実体のさだかでない何人ものぞくことのできない自分

 自身の世界に沈澱していた。

 家族のものに漠然たる不安をあたえるものは、これだった。一体なにを考え、なにを反芻している

 のか、その意志を表情から察知直観できないということは家族の資格をもたないウンハイムリッヒ

 な存在の証しだ。

 共同生活をしながら相互が一向邪魔にならない家族関係に重要なものは、食器や家具のように固定

 した性質の認識なのだが、おやじの思想生活は、たえず変貌していたため、家族は信じることがで

 きず、落着けなかった。

 おやじのように「考えすぎる葦」は家庭のなかでいつも孤独で、不幸なのだ。そしてその人をもつ

 家族もまたやりきれない。

 智的緊張がつづいているあいだは、家にいてこのような状態が維持されるが、これが熄むと、ある

 いは限度にくると、酒を要求し、外出して行ったようだ。

 私がおやじと酒を飲む機会が多くなるにつれて、酔っているときのおやじの示す明朗さ、機智と能

 弁にいささか呆れた思いをした。

 このように解放的になっているときにだけ、人に接する梯会があったために、多くの人々は家でよ

 り長い時を、地球のそとに過していたおやじを、あまり知ることがなかったとおもう。

 自分でもいっていたように、内側を眺める限をもっていたおやじにとって、デルフォイ寺院の碑文

 は、人生の第一頁に書かれていたようだ。

 で、おやじの言葉のすべては、自分の内景であったと考えられる。
                            -辻まこと『おやじについて』