低 人 教

 
「低人教」という宗教があるわけでもない。

萩原朔太郎に『辻潤と低人教』という、辻潤の『ぼうふら以前』に寄せた跋文がある。


 そこで辻潤の選んだ道は、ペンで書く文学の表現でなく、生活そのもの、人格そのもので表現する

 文学だった。つまり彼の場合でいえば、「辻」という人そのものが、それの表現された「作品」な

 のであった。

 此所に於いてか彼は一つの宗教的人格になってしまった。しかもそれは信仰を持たない宗教家(こ

 んな矛盾した言葉はない)である。

 彼はスチルネルと共に自我経を説き、親鸞と共に地獄一定を説き、トルストイと共に無抵抗主義

 を説き、老子と共に虚無を説き、仏陀と共に乞食の生活を教え、エルレーヌと共に酒中の人生を教

 えるけれども、彼自身の魂が安住する家郷の救いは何処にもない。

 彼は永遠に蹌踉としているルンペンであり、漂泊者であるに過ぎない。

 しかも彼の周囲に集まる弟子たちは、彼の中に自己の家郷と平和の救いとを見出すのである。丁度

 あたかも、文学作品の読者たちが、作品の中に自己の家郷を見出すように、辻潤の場合にあっては

 彼の「人物」の中に、「生きた読者」が住んでるのである。その生きてる読者たちは、多く皆半纏

 を着た熊さん八さんのたぐいであり、辻潤の著書の一頁すらも読んでいない。のみならず師の先生

 を、自分等と同じ無学もんだと思っている。

そんな事を、萩原朔太郎は書いている。


ネットのどこかでカミュの言葉があった。

カミュは詳しく知らないけど、それは頭に残ったというかコピーして残した。

出典先は知らん。

イデオロギーに囚らわれた人間は、死の側にいる「法則の証人」であり、生の側にいるのは「肉の証

人」である…そんな事をカミュが書いたとあった。


前に書いたけど、私は「法則の証人」を長くやってたから、これはグサッときた。


辻潤のブンガク?が萩原朔太郎が書くように「生活そのもの、人格そのもので表現する文学」であるのな

ら、私は辻潤を正確に理解するよりまず、「辻潤」をただ言葉によるだけでなく、自分の生活全てで、生

き方そのものの中で表現せんとアカンのやろと思っている。


・・・言い切ってみた。



そんだけ。



辻潤/自分だけの世界(辻潤によるシュティルナーの解説)
  →http://www.aozora.gr.jp/cards/000159/files/853_15049.html