六才にして・・・

 
 六才にして 早人生のかなしみを 知り覚えにし 我がなりしかな


7月23日は金子文子忌。


冒頭の句は、前に金子文子の事を書いた時に、不逞さんに教えて貰ったもの。


持っている、『何が私をこうさせたか』金子文子(筑摩叢書)を読む。


以下は同書にある鶴見俊輔の解説からのものです。

 永遠の今という考え方が、そこにあらわれる。

 この考え方は、人間とともにあったと言えるかもしれない。

 哲学史の上で、何度か、この考え方はあらわれる。大学で哲学を講じるものは、明治から大正にか

 けて、この考え方にふれることがあった。

 しかし、世界を何もないものと見て、同時にその一瞬である今を、すぎさらないものとしてみる見

 方は、金子文子の場合、自分に死刑を宣告する国家に対する一つの宣言としてのべられている。

 この手記は、翻訳書からきりはなされた抽象語をたのみにして、自分の思想上の立場をきずき得る

 と考えてきた、戦争の十五年をとおしてさえ、あまりかわっていない今日の日本人の知識人の足も

 とをてらす。

 重大な思想が、正規の教育制度内の勤勉な学習によってのみそだつと信じている人にとって、金子

 文子の手記は、誰かがかわって書いた偽書のように見えるだろう。

 誰が書かせたかといえば、日本の国家が書かしたのであり、国家に対してひとり立つものとして彼

 女はこの手記を書いた。

 金子文子は、明治以降の日本思想史から説明しにくい。そのあらすじから、はずれてしまう。この

 ことは、反対に見れば、私たちひとりひとりの内部に、この国の思想史に還元できないものがひそ

 んでいるということへの手がかりになる。

 獄中でこの人の書いた手記は、自分自身の手づくりの哲学を持っていたことを示している。

 金子文子は、石川啄木の短歌を読み、マックス・シュティルナーの著作を読んだ。彼女自身の生い

 たちと植民地体験を、それらの著作を読む時の光源とした。

 大正から昭和にかけて数多くの日本人が石川啄木を読み、マックス・スティルナーを読んだ。大学

 生や教授たちとは、ちがう読み方を金子文子がしたことはたしかで、そのちがいは、文子の自決後

 に、スティルナーの読者たちに、辻潤のような例外を別として、おとずれた思想上の変化をしてあ

 きらかになる。金子文子の手記が、日本の思想史の舞台の全体をてらしだす力をもつのはこの故で

 ある。

            -『何が私をこうさせたか』金子文子鶴見俊輔による解説より。

 
  手足まで不自由なりとも 死ぬといふ 只意志あらば 死は自由なり金子文子