歩 行 者

ん?ひょっとして秋か?

そんな具合な感じになってきてる。

ほんでも、毎度のことやけど酒屋が『秋味』持ってくるまでは秋も来んもんとしよう。

酒屋に義理もないけど。


大泉黒石の『老子』は期限が来たので、昨日図書館に返した。

途中までしか読んでいない。

福永光司訳の『老子』(朝日選書)を持っているので、途中からそっちを読みたくなった。

これを読んでから、黒石と『老子』の話が出来たらええなぁ思う。

どないなるかはわからんけど。


正確に理解しようなんて、いつものように思うてもない。

私がどない読むかだけのこと。


 いつも人民を無知無欲の素朴で健康な状態におき、

 あの知者賢人とよばれるさかしら病患者につけこむ隙を与えないようにする。

 このようにして無為自然の政治を行なってゆくならば、平和に治まらぬ国とてないのである。

                         -『老子』第三章/福永光司


要するに、知らぬが仏ということか?

しっかし、「あの知者賢人とよばれるさかしら病患者」(福永光司訳)は笑うなぁ。


人が読んでて面白そうやったので『半七捕物帳』(光文社)を適当に借りてきて、適当に読んでる。

いまは「かむろ蛇」。

おもろい。


ところで、歩行者。

 歩行者の趣味は、思想を選択し、思想を従者にし、思想を馘首する。

 動揺と混沌とは歩行者の常態だ、生理と心理とを止揚するものは土着民だ。

 土着民は法律を作る。放牧民は、彼自身を法律の一部としている。真の意味の自信だ。


 人々が未来の方向に見るヴィジョンは、郷愁が過去から抽出した記憶の巧妙なすりかえだ。たかだ

 か五十年やそこらの個人的な過去を抽出するか、自分の生命のパイプから五十万年の過去をさぐっ

 て抽出するかが、ヴィジョンの質を決定する。


 自然のこころよさは、あるがままのものがあるがままで徹底している点にあるのだ。


 歩行者は全世界を敵として一人で闘うものだ。最初に現われる尖兵は、生理のうちに槍と楯を構え

 る自己だ。
                              -辻まこと「余白の告白」より


三十郎さん、おおきにです。



ほな。