南天堂の潤と潤

 ある晩のこと、ぼくが仲間の詩人萩原恭次郎、壷井繁治、小野十三郎などと飲んでいると、対角の

 テーブルで飲んでいた数人のなかから、筒っぽの紺ガスリを着て、坊主頭にねじりハチマキをした

 「体格のいい男が、どうしたハズミか、険しい眼をジロリとぼくに向けて、「おい、おめえはナマ

 イキだぞ」と、理由もなしにケンカをふっかけてきた。その男は「山犬」と呼ばれ、ケンカばやい

 ことで知られているアナーキスト作家の宮嶋資夫であった。

 言葉を交わしたことほないが、ここでも 顔を合わせたことは何度かあった。相手がわるいなと思

 ったが、そのころのぼくもヤケッパチでよくケンカをしたもので、売られたケンカは買わないわけ

 にはいかなかった。ぼくはビールびんを握って立ちあがった。

 そしてむこうを見ると、宮嶋とならんで飲んでいた小柄な中年のうらぶれたような「紳士」が、宮

 嶋の手をおさえるようにして、しきりになだめていた。

 それがまぎれもない辻潤そのひとであった。

 それが妙なキッカケになって、ぼくは私淑していた先輩の辻潤や宮嶋資夫に接近するようになり、

 南天堂ではテーブルを共にし、また「アナザー軒」といって、ほかの酒場へもいっしょに行ったり

 した。その前から、ぼくは辻潤の愛読着であると同時に、初期労働者文学の名作といっていい『坑

 夫』その他の小説を読んで、官嶋資夫にも敬慕と親近感をいだいていた。その宮嶋が、なぜ不意に

 ぼくにケンカをふっかけたのか、あとでそのわけをきいてみた。

 「山犬」の宮嶋は苦笑して云った。

 「きみが『新潮』に書いていた『幻滅人の出発』という論文を読んだら、おれの考えてることと同

 じようなので、若いやつがなんだと思って、ちょっと癪にさわったんだ」

 すると、いっしょに飲んでいた辻潤が、「ナーンだ、それじゃ若いやつにお株をうばわれたってわ

 けか。いいじゃねえか、若い衆には花をもたせてやるものさ」と云って、ケラケラ笑ったのをおぼ

 えている。

 辻潤と宮嶋資夫はこのように、ぼくが青年期に接触して、自分の生きる道を転換させ、方向づける

 ほどの感化をうけた稀少な日本の文人である。その基底にあるものは思想的アナーキーとニヒーリ

 ズム。そして習癖としての飲酒。これはぼくもおそらく死ぬまでやめられないだろうが、悔いると

 ころはない。げんにこの原稿も、今年(一九七〇年)五月、女房に死なれて、わびしい独りぐらし

 をしているぼくが、深夜ウイスキーの水割をのみながら書いている。そうしないと想念がわいてこ

 ないのである。

                         -岡本潤『よみがえる辻潤の魂』より

岡本潤辻潤を読み漁り、「こんなにも自分をさらけだしたユニークな文章で既成観念を笑殺し、価値の

顛倒をみごとにやってのける文人が日本にもいるのかと驚き感服した」と書いている。

そんな潤と潤が出会うのは大正13年頃(1924)のこと。

「当時、白山上に松岡虎王麿というオクゲさんみたいな名前の人物が経営する南天堂という書店があり、

その二階がレストランになっていて、そこがアナ系やダダ的な文人や詩人などのたまり場になっていた。

なにしろ常軌を逸したアウトロウ的な連中が毎晩のように集まるので、飲んではさわぎ、歌ったり踊った

りするばかりでなく、口論から乱闘さわぎになることもしばしばあった」(同上)

大正13年頃というと、それまで南天堂の常連だった大杉栄関東大震災のどさくさに葬り去られ、東京の

変貌にみんながヒリヒリしていた時期でもある。


後に岡本潤自身も「ごろにあ」という酒場をはじめる。

当然のように辻潤も出入りし、辻と暮していた小島清が居候していたこともある。

店は当たり前だけど潰れた。


寺島珠雄の『南天堂』をどうしても手に入れたくなった。

この本は、京都の三月書房で買うと決めている。

都合つけんとアカンなぁ。



そんだけ。