道頓堀で号外を読む

 
あいつらに殺されてはいかんな。殺され損だよ」

「大逆にしろ、大杉栄にしろ、野枝さんにしろ、殺されてしまう運命に生まれてきたんだ、と思うしかな

いよ。ぼくは自分で自分を殺しても、やつらの手は借りないぜ」


これは、高木護の『辻潤「個」に生きる』に書いてある、小田原の山内画乱堂が辻潤からきいた話だ。

大杉栄伊藤野枝と大杉の甥の橘宗一(6歳)は関東大震災の混乱の中で殺されて井戸に捨てられた。

首謀者は甘粕正彦とされている。

関東大震災直後、大杉栄伊藤野枝辻潤の所に見舞に行っている。それは、野枝と辻潤の子、まことの

様子を気遣ってのことと思われる。

そんな野枝と栄そして橘宗一が殺されたのは、それから数日後のこと。

男女二屍ノ胸部ノ外傷ハ甚ダ高度ナルニ拘ラズ皮膚ニハ之ニ相当セル損傷無キヲ以テ衣服ノ上ヨリ加害

ヲシ致死後裸体ト為シ畳表ニテ梱包ノ上井戸ニ投ゼシモノト推定ス。

これは後に(1976年と覚えている)発見された、死因鑑定書の結論部分。

辻潤が、そのことを知ったのは新聞の号外によってだ。

「夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の

脳裡をかすめて走った」と書いている。



佐野眞一『乱心の曠野』読む。

  主義者殺しの烙印を背にした男は満州に渡り、闇世界に君臨した

  壮絶な自死とともに葬られたはずの大杉事件の「真相」を新資料、新証言で描破する

腰巻きには、そんな具合な事が書いてある。

満州時代の甘粕正彦を追っかけたもの。


『乱心の曠野』は佐野眞一の本らしく、ひたすらデータを積み上げていくけど、それだけのこと。

で、そっから何が出てくんの?という答えはない。

これは、ダイエー・中内を追っかけた『カリスマ』でも感じたこと。


ところで、辻潤が山内画乱堂に言ったとされる言葉に戻る。

辻潤は「やつら」とか「あいつら」と言ったとされる。

決して、「権力」とか「軍部」とか「組織」とか「国家」とか、そうした言葉は使っていない。

当たり前である。

たしかに抽象的には「国家」とか「組織」ということになるのだろうけど、「国家」が大杉や野枝や宗一

の首を絞めたり、殴ったりするわけがない。

「国家」や「組織」は、とりあえず具体的な個人の言葉や行為として現実のものになるのだ。

それは、いつだって、誰にだって起こりうることでもある。


辻潤は、それを踏まえて「やつら」、「あいつら」といっているのだ。


<高くて固い壁に立ち向かう卵>というけど・・・腐った卵も時々はあるということ。


そんだけ。



<追加>

この事件がきっかけとなって、辻潤伊藤野枝とのことを書いたのが『ふもれすく』。

後にも先にも、これしか書いていない。

僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。

それは、しかし世間に対するそれではなく僕自身に対してのそれである。自分はいつでも自分を凝視

めて自分を愛している、自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持って

いる。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。

世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。

                              -『ふもれすく』より
こんなことを書いている。