コテコテではない大阪
戦後、TV黎明期、現在を交差させながら、市民警察が国家権力に押しつぶされた過去を、地方としての
大阪が中央に集約された現在を、それから、どっかに放り出された水都としての大阪が描かれている。
なぜ、大阪を描くのかとよく訊かれます。正直なところ、現在のこの街のていたらく-有栖川有栖 君の喝破によれば、ネガティブなイメージでしか他とは違うということを主張できなくなっている -にはうんざりしているのです。しかし、昭和九年の大阪を舞台にした『殺人喜劇のモダン・シテ ィ』では、大宅壮一が"日本のアメリカ"とたたえた都市文化を描き出すことで、それがあっさりと 国家に踏みつぶされたことにも気づかされました。そういう発見がある限り、この地を描くことに なるでしょうが、それにしても今のありさまは…。昨今は「お笑い」という言葉を聞くのすら飽き あきしてきました。 -芦辺拓『時の誘拐』後書きより
続いて読んだ、木津川計の『含羞の都市へ』。
これも、なんでコテコテ大阪のイメージが出来上がったかについての労作や思います。
「文化のテロルと一九六〇年代」の章は、こんな構成に。
転落した大阪ではあるが、しかしこれは大阪だけのことではない。壊滅の予兆は全ての都市に…
木津川計はそう書いてはります。
ところで、調子が悪いのであり万年筆。
頭寒足熱には縁ないですけど、悪寒発熱は長い友達でおます。
みなさんも、ビョーキとビンボーはこじらすとヤヤコシイことになりますので、気をつけてください。
ほな。