コテコテではない大阪

 
こないだ読んだ、芦辺拓の『時の誘拐』。

戦後、TV黎明期、現在を交差させながら、市民警察が国家権力に押しつぶされた過去を、地方としての

大阪が中央に集約された現在を、それから、どっかに放り出された水都としての大阪が描かれている。


芦辺拓は『殺人喜劇の13人』で第一回鮎川哲也賞受賞とあって、これ今読んどります。

 なぜ、大阪を描くのかとよく訊かれます。正直なところ、現在のこの街のていたらく-有栖川有栖

 君の喝破によれば、ネガティブなイメージでしか他とは違うということを主張できなくなっている

 -にはうんざりしているのです。しかし、昭和九年の大阪を舞台にした『殺人喜劇のモダン・シテ

 ィ』では、大宅壮一が"日本のアメリカ"とたたえた都市文化を描き出すことで、それがあっさりと

 国家に踏みつぶされたことにも気づかされました。そういう発見がある限り、この地を描くことに

 なるでしょうが、それにしても今のありさまは…。昨今は「お笑い」という言葉を聞くのすら飽き

 あきしてきました。
                             -芦辺拓『時の誘拐』後書きより


続いて読んだ、木津川計の『含羞の都市へ』。

これも、なんでコテコテ大阪のイメージが出来上がったかについての労作や思います。

「文化のテロルと一九六〇年代」の章は、こんな構成に。

  ①がめついの誕生
  ②ど根性の社会化
  ③阪田三吉はなぜ登場したのか
  ④東洋の魔女と鬼の大松
  ⑤花登筺の哲学と作品世界
  ⑥低成長下 大モテのどケチ教
  ⑦三度目の文化テロル グリコ・森永事件と豊田悪徳商法


転落した大阪ではあるが、しかしこれは大阪だけのことではない。壊滅の予兆は全ての都市に…


木津川計はそう書いてはります。



ところで、調子が悪いのであり万年筆。

頭寒足熱には縁ないですけど、悪寒発熱は長い友達でおます。

みなさんも、ビョーキとビンボーはこじらすとヤヤコシイことになりますので、気をつけてください。


ほな。