『自我教』という本のこと

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ほとんどメモ書き状態です。読んでいただける人が退屈かと思い画像を一枚。

これは、マックス・シュティルナーの似顔絵です。この人の肖像はこれしかない。

書いたのは、F・エンゲルスエンゲルスマルクスと共同で『ドイツ・イデオロギー』を書いた頃、

ヘーゲル左派と呼ばれた若者たちが集まるカフェで、エンゲルスが悪戯に書き残したものとされてま

す。ついでに、プロフィールの写真の人物は辻潤です。



辻潤とマックス・シュテルナーの『唯一者とその所有』とは切り離せない。

辻潤自身が、『唯一者とその所有』に出会う事で、自分の態度が決まったとしているくらいですから。

辻の訳本は、重訳(独逸語→英語→日本語)である。誤訳が多いという話もある。また、この『唯一者

とその所有』をニーチェは読んでいたのでは?という見方もある。

辻潤は、この本の書名を『自我教』としている。これは、辻らしいと思ったりもする。


で、そうしたことは、一応おいて置くとして辻潤に近づくため読んだのは読んだ。


非常に読みづらい本である。Aを引用し、その反駁にBを引用しと続き、今読んでいる文章が、誰の書

いたものなのかが、わからなくなってしまうような、そういう書き方で作られている。

結果的に読んだという事実を残して終わったような気がしている。ただし、序文と結論の部分は未だに

暗誦可能なくらいに残っている。

そして、何よりも辻潤自身が『自我教』の序文で、読者に向けて書いた一文が素晴らしい。

 
 ニイチェは「超人」を説いた。スチルネルには「超人」の要はなかった。「超人」は「人間らしいひ 

 と」、「真人」などと同様、スチルネルにとっては無用な幻影である。自分は「血肉のこの自分」で

 沢山である。(仏教の「即身即仏」参照)人は生まれながらその人として完全である。その人として

 成長し、その人として死ねばそれでいいのである。「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」に

 もなる必要もなければ、また他から「なれ」という命令を受けることも無用なのである。
                             -「自分だけの世界」-より
 

シュティルナーは、毒虫に刺されて病死。辻潤は、餓死という形で終わったようだ。実生活でも二人の共

通項は多い。この辺りは、また機会があれば書きたいと思う。

ぼちぼちと続けていければいいかと思っている。