『自我教』という本のこと
ほとんどメモ書き状態です。読んでいただける人が退屈かと思い画像を一枚。
これは、マックス・シュティルナーの似顔絵です。この人の肖像はこれしかない。
す。ついでに、プロフィールの写真の人物は辻潤です。
辻潤とマックス・シュテルナーの『唯一者とその所有』とは切り離せない。
辻潤自身が、『唯一者とその所有』に出会う事で、自分の態度が決まったとしているくらいですから。
辻の訳本は、重訳(独逸語→英語→日本語)である。誤訳が多いという話もある。また、この『唯一者
とその所有』をニーチェは読んでいたのでは?という見方もある。
辻潤は、この本の書名を『自我教』としている。これは、辻らしいと思ったりもする。
で、そうしたことは、一応おいて置くとして辻潤に近づくため読んだのは読んだ。
非常に読みづらい本である。Aを引用し、その反駁にBを引用しと続き、今読んでいる文章が、誰の書
いたものなのかが、わからなくなってしまうような、そういう書き方で作られている。
結果的に読んだという事実を残して終わったような気がしている。ただし、序文と結論の部分は未だに
暗誦可能なくらいに残っている。
そして、何よりも辻潤自身が『自我教』の序文で、読者に向けて書いた一文が素晴らしい。
ニイチェは「超人」を説いた。スチルネルには「超人」の要はなかった。「超人」は「人間らしいひ
と」、「真人」などと同様、スチルネルにとっては無用な幻影である。自分は「血肉のこの自分」で
沢山である。(仏教の「即身即仏」参照)人は生まれながらその人として完全である。その人として
成長し、その人として死ねばそれでいいのである。「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」に
もなる必要もなければ、また他から「なれ」という命令を受けることも無用なのである。
-「自分だけの世界」-より
と」、「真人」などと同様、スチルネルにとっては無用な幻影である。自分は「血肉のこの自分」で
沢山である。(仏教の「即身即仏」参照)人は生まれながらその人として完全である。その人として
成長し、その人として死ねばそれでいいのである。「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」に
もなる必要もなければ、また他から「なれ」という命令を受けることも無用なのである。
-「自分だけの世界」-より
通項は多い。この辺りは、また機会があれば書きたいと思う。
ぼちぼちと続けていければいいかと思っている。