『闘争のエチカ』から
いきなり引用です、しかも長いです・・・すいません。
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僕はこう考えてます。個体的であることは共同体の中にあることですが、単独的であることは共
同体の外にあることです。とすれば、単独的であることは、「社会的」なのです。したがって、
がって、それ以後のマルクスは、類的存在(共同体的存在)といった言い方を放棄し、否定したわけで
しようとした人たちは、類と個が和解するような共同体を根底にもってきたのです。吉本隆明のタイプが
そうなのですが、彼らは、そこに国家を揚棄てする拠点として家族を見出したのです。これは戦前でいえ
ば、「種の論理」です。こんなものは、国家を揚棄するどころか、国家(共同体)を強化することにしか
なりません。
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太字の部分は私がつけたのですが、その通りだと思います。
どうかなあと思っております。
人ってイメージがまだありますので、柄谷行人に登場してもらいました。
どうも、批判の的が外れてるようだ?そんな考えがいろいろ出てきているようです。
もう一つ引用ですいません。高木護『一コの個』からです。
識るべしではなかろうか。おのれ一コの「個」を。」
私も辻潤を研究しているわけではなく、辻を読んで我に帰ったように思った人間です。
そういう所から、<辻潤>という人の事をもう少し書こうと思っております。