『闘争のエチカ』から

いきなり引用です、しかも長いです・・・すいません。

「『闘争のエチカ』対談~蓮實重彦柄谷行人」より。

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僕はこう考えてます。個体的であることは共同体の中にあることですが、単独的であることは共

同体の外にあることです。とすれば、単独的であることは、「社会的」なのです。したがって、

社会主義コミュニズム)は、単独者の解放にほかならない。 これは、マルクス共産主義につ

いてもいえるのではないかと思うのです。初期マルクス、つまりフォイエルバッハマルクス共産主義

は、明らかに共同体主義です。現在でも、疎外論に基づく人たちは、概ね共同体主義者なのです。しか

し、マルクスは、これを批判します。廣松渉によると、この自己批判は、シュティルナーのフォイエルバ

ッハ批判の衝撃によるらしい。シュティルナーは『唯一者とその所有』を書いたけれども、共産主義者

ったのですね。つまり、いわば単独者からなる共産主義者だったのです。これは、アナキズムにおいて受

けつがれます。マルクスは、やがて、『ドイツ・イデオロギー』でシュティルナーを聖マックスとよんで

唯物論的に批判するのですが、しかし、シュティルナーの批判を受けとめていたことはたしかです。した

がって、それ以後のマルクスは、類的存在(共同体的存在)といった言い方を放棄し、否定したわけで

す。ずっとあとでも、マルクスは、批判しながらも、アナキズムを受けいれている。しかし、マルクス

義は、共同体主義国家主義)となった。それに対して、初期マルクス疎外論にもどって、それを批判

しようとした人たちは、類と個が和解するような共同体を根底にもってきたのです。吉本隆明のタイプが

そうなのですが、彼らは、そこに国家を揚棄てする拠点として家族を見出したのです。これは戦前でいえ

ば、「種の論理」です。こんなものは、国家を揚棄するどころか、国家(共同体)を強化することにしか

なりません。

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さすがに柄谷行人シュティルナーの<唯一者>についての捉え方はすごいです。

太字の部分は私がつけたのですが、その通りだと思います。

ただ、マルクス共同体主義国家主義)を棄てて、社会主義アナキズム)を受けいれたというのは、

どうかなあと思っております。

シュティルナーと云えば『ドイツ・イデオロギー』でマルクスエンゲルスにボコボコにされて終わった

人ってイメージがまだありますので、柄谷行人に登場してもらいました。

どうも、批判の的が外れてるようだ?そんな考えがいろいろ出てきているようです。


もう一つ引用ですいません。高木護『一コの個』からです。

辻潤を読んで、辻潤が何であるかを理解するよりも、かってに読んで、まず自分が何であるか

識るべしではなかろうか。おのれ一コの「個」を。」


私も辻潤を研究しているわけではなく、辻を読んで我に帰ったように思った人間です。

そういう所から、<辻潤>という人の事をもう少し書こうと思っております。