ダメの人~辻潤と無想庵
山本夏彦は『無想庵物語』。
無想庵武林盛一は私の父露葉山本三郎の友で、武林は明治十三年生まれ父は十二年生まれの
同時代人である。武林はながくフランスにいて昭和五年に帰って久々で父を訪ねたら、父は
すでに昭和三年に死んでいて、そこに中学三年になった少年の私がいた。見れば死んだ父と
瓜二つである。友の子は友だと数え五十一になる無想庵と数え十六になる中学生は友になっ
たのである。そのころ私は死ぬことばかり考えて、むっとして口をきかぬ気心の知れぬ少年
だった。(『無想庵物語』より)
親子と交流している。
何者でもなかった。辻と武林の縦横談は谷崎のとは違って東西の思想家が出てきて、それも近
所の人のように出てきて、二人はようやく会話を楽しめたことを喜ぶだけで別段それが何もの
も生まないことは承知だったようである。
すくなくとも少年の私にはそう見えた。私はこれだけの博識に接し何を知ったかというと、ま
ず自分は学問には向かないということを知った。そして人間の頭というものは実に勝手なもの
で、物を識ることと物を創ることとは全く別だと知った。
辻潤と無想庵が知識の如意棒をふるってわたりあっているのは争っているのではない、遊んで
いるのだということは他人である少年の目には見えた。二人は共に野心がない欲がない、人を
凌ごうとする気がない。これらはいわば「ダメの人」だと突然私には分かった。私はまだ死ぬ
ことを考えていた。~そして無想庵の知識はそれに何の力もないのである。(『無想庵物語』より)
後に、無想庵の娘のイヴォンヌを巡って山本の恋敵となる辻まこと。
生活者としてほとんど無能な父、辻潤の身の回りを世話しながら、父の事をこう見ていた。
おやじが晩年にほんやくした本は『美への追求』というのだった。正におやじの精神は
[美を創る]機構が欠乏していた。もしおやじが、芸術家としての能力、構成された思
想を感覚認識に、思想を知覚現象に、造型的なものに転位させることができれば、これ
は一つの矛盾の統一であり、にせものであっても気がちがわずにすんだとおもう。」
(辻まこと『おやじについて』)
無想庵に関心が向かず、辻潤に向かったのは、辻がシュティルナーの翻訳者であり、辻なりに解釈した「唯一
者」の世界に興味を持ったからだと思う。
辻の後半生を辿っていく。放浪とするより浮浪とする方がしっくりする。辻は何かを創るために非定住を
余儀なくされたわけではなかった。