『辻潤』の辻褄

これは私だけの事かも知れませんが、辻潤の辻褄が合わなくなることがあるという話です。

私は重度の「こうであるべき」病、「そうすべき」病です。根深いです。なかなか治りません。

今日まで、私の何がどうだったかは、そこそこの年になったので「いろいろあった」で済まします。

そんな私が、ずいぶんと前に出会ったのが辻潤の次の様な言葉です。


  ニイチェは「超人」を説いた。スチルネルには「超人」の要はなかった。「超人」は「人間らし

  いひと」、「真人」などと同様、スチルネルにとっては無用な幻影である。自分は「血肉のこの

  自分」で沢山である。(仏教の「即身即仏」参照)人は生まれながらその人として完全である。

  その人として成長し、その人として死ねばそれでいいのである。「真人間」にも「超人」にも

  「犬」にも「仏」にもなる必要もなければ、また他から「なれ」という命令を受けることも無用

  なのである。-「自分だけの世界」

  即身成仏―とは自己を"as such"として単純に認識することである。一切の理想をかなぐり棄てた

  状態である。-「ふらぐまん・でざすとれ」


これを読んで、ずいぶんと自分が楽に軽くなったように思いました。

これはマックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』の辻的解釈ということになるかと思います。


ところで、私は人の尻馬と口車に乗る事が持って生まれた性格のような男です。

うっかりしてると、いつのまにか人の先頭でニッポンチャチャチャをやってしまう様な男です。

このブログも、いつのまにか辻賛歌となってたりします。

教祖<辻潤>の誕生です。

自分をなにものの上にも置かないとする出発からすると決定的にダメなことです。辻が『唯一者とその

所有』を『自我教』とした事の深さをあらためて感じております。


  僕の力は僕の所有である。

  僕の力は僕に所有を与える。

  僕の力は僕自身である。そしてそれによって僕は僕の所有となるのである。

                             ―「唯一者とその所有」