るんぺん
浮浪中の辻潤です。
「港は暮れてルンペンの、のぼせ上ったたくらみは、藁で縛った乾がれい、犬に喰わせて酒を呑む」
ルンペンとして、汚れた巷を飄々と尺八一管を腰に流れて歩いていたのです。
ルンペンに目的はありません。
ちょうど、植物に目的がなく、それ故に誰に遠慮気兼ねすることもなく自己を開花させていくように、
人間もまた目的を持たず刹那刹那の最も充実した生命的欲求に従って生きていけばいい。
辻が訳し、自身も楔を打ち込まれた、M・シュティルナー、『唯一者とその所有』。
その終わりは次のようなものです。
自分は自分の力の所有人である。それは自分が自分自身を無二として知る時にのみそうであり、
唯一者に於いて、所有人彼自身は彼の創造的虚無に帰る。
其処から彼が生まれて来る。自分以上に一切の本質は、それが神であれ、人間であれ、悉く自己の唯一性
の感情を薄弱にする。
そして、それはこの自覚の太陽の前にのみ蒼白くなる。若しも自分が唯一者たる自分自身のために自らを
干与するならば、その時、自分の干与はその刹那に変わる、具体創造者の上に安住し、創造者は彼自らを
消費して、自分は、
万物は己にとって無だ、といい得る。(『唯一者とその所有』より)
唯一者とは虚無において生まれる創造としての刹那に生きる-というところあるようです。
辻潤は、自らそう生きた人と思います。