<学校→寺→スーパー→博物館>ジャズ喫茶の変貌とアリス・コルトレーンのこと
について、おもしろい記事がありましたので引いてみます。
として東京のジャズ・クラブに出演する事もあるようです。
ついでですが、この人の『占領の記憶/記憶の占領』は面白いです。
話がずれてしまわないうちに、同書からの引用です。
これは、オーストリア人の日本研究者であるエクハート・デルシュミットの「戦後ジャズ喫茶論」をモラ
スキーが引用したものですから、孫引きになります。
では。
この小論文で、デルシュミットは戦後におけるジャズ喫茶の変貌を次のよううに区分し、要約している。 【1950年代/学校】 ジャズのレコード(特に輸入盤)の私有が困難なこの時代には、ジャズ喫茶はジャズを勉強する学校とし て主に機能し、店主が教師の役割を担う。客たちはきわめて真面目な生徒のような態度が目立つ。 【1960年代/寺】 暗い内装の店が増え、オーディオ装置が整ったおかげで、大音量でレコードがかけられるようになり、会 話はほぼ不可能(あるいは禁じられている)、アルコール類の飲み物を出さない禁欲的趣向と店内の規則 厳守を徴底するマスターをありがたく推し載く、お寺やカルトなみの宗教的空間のジャズ喫茶が増える。 【1970年代/スーパー】 1973年頃まで学生運動の勢いが続いたが、その後社会風潮も急変し、ジャズ喫茶も生き残るのにフュー ジョンとロックの押し寄せる波に対抗および対応しなければならなくなる。その結果、1970年代後半から ジャズ喫茶は大きく変貌する。客離れ対策として、店内を明るくしたり(照明を増し、真っ黒だった壁を 明るく塗り替えて)、軽い親しみやすいフュージョンのレコードをかけたり、客のために漫画を棚に置い たり、アルコール類をメニューに加えたりして、生き残るために必死にあの手この手を使う店が多い。客 引きに懸命になったジャズ喫茶は、商品およびサービス拡大の作戦において、(スーパー)に似ている。 【1980年代/博物館】 1980年代では、メディアにおけるふたつの大きな変革が目立った。①ウォークマンの普及と②CDの発 明。前者のおかげで個人がいつでもどこでも大音。量でかなり良質の音で音楽を聴くことが可能となり、 後者は1982年の市場進出からたった五年間でレコードを圧倒してしまった。しかし、そのうちに、小さな プラスチック・ケースに入る、いかにも大量生産の匂いのするCDに不満を感じる客も現れ、「本物の ジャズ」として古いLPレコードと大きなしゃれたジャケットを、大切に保存してきた本格的なジャズ喫 茶に対する見直しが、1980年代末から表面化する。この類の若い客にとって、ジャズ喫茶というのは過去 を大切に保存する(博物館)のような存在である、と。 -『戦後日本のジャズ文化』マイク・モラスキー
異議あり!の声も上がるかも知れませんが、私は、まあこんな具合かなぁと思います。
私は1960年代の<寺>の時代にジャズ喫茶と遭遇しました。世界の不幸をぜんぶ背負い込んだような苦し
そうな顔付の人がぎょうさんいました。生きてるだけでしんどいのに、わざわざ音楽聴いてまで、そない
な顔せんでもええのにと思うたりしてました。
nietzsche_rimbaudさんが『アリス・コルトレーン訃報 』って記事を書かれてました。
→http://blogs.yahoo.co.jp/nietzsche_rimbaud/43811215.html
→http://blogs.yahoo.co.jp/nietzsche_rimbaud/43811215.html
という話が出ます。
たとえば、コルトレーンがよく演奏していた『マイ・フェイヴァリット・シングス』があります。
『セルフレスネス・フィーチャリング・マイ・フェイヴァリット・シングス』というCDがあります。
相変わらず、カタカナで書くともの凄いです。
いうメンバーでの演奏です。本当はドラムはエルヴィン・ジョーンズであるべきなんですが、この録音の
ときは塀の中に居たりしました。
同じ曲を『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン!』というCDでも聴くことが出来ま
ギャリソン(b)ラシッド・アリ(d)という面々での演奏です。
私は両方とも好きなのですが、後のほうを嫌う人も多いようです。
これはある意味で、上で引用したような日本のジャズ喫茶の変貌の中でジャズを聴いていた人達の反応
のように思います。
最近の人が聴き比べてどう感じたかを聞いてみたい気がしたりもします。
そんなんです。