死ぬときはね。死ぬときはうなきを食って死にてえ

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辻潤です。

1934年(昭和18年)頃の姿だそうです。

この頃の辻潤

昨年の十月から柳生の里の芳徳寺に在って、『唯一者とその所有』以来に翻訳意欲をそそられたという

A・キャノブィッチ『美への意志』を完訳し、昭森社で出版されることになったが未刊(原稿は戦災で焼

失)。同寺には七月六日まで滞在。

七月七日ころから、定芳住職の好意と松尾とし子の仕送りで但馬の城崎温泉の地蔵湯に遊ぶ。宿は同温泉

の「つばき屋」。

七月十五日ころから横浜市鶴見区北寺尾一五〇九の津田光造方に寄寓。

津田光造は辻を貧乏神と呼んでおそれ、辻を避けて台湾に行ったという。(玉生清「辻潤の思い出」)

八月 淀橋の西山勇太郎方に寄寓。また新宿旭町のドヤ街の冨田屋別館をしばらく宿にする。

門付けの道すがら、中西悟堂をたずね、ご馳走になる。

九月 このころしばしば松尾とし子の縁つづきの目黒区自由ケ丘の石井漠方に出入りする。漠夫人にユダ

ヤ人とジプシーに関する原稿や、伊藤野枝の形見の品などが入っているという、小さな柳行李をあずけ

る。大森の矢橋丈吉方にも寄寓。

十月 小田原の我乱洞方に寄寓。

十一月 西山勇太郎方に寄寓。同月の中旬ごろから奈良県の柳生の里の芳徳寺、広島を流寓。

十一月 京都の大徳寺を寄寓。(*5 105 十五日書簡)

                                     ※辻潤年譜より

この写真には、他に中西悟堂と一緒の写真もあるそうですので、「門付けの道すがら、中西悟堂をたず

ね、ご馳走になる。」という時の写真かも知れません。


ところで、この年に、辻潤吉行エイスケ一家を訪ね、吉行淳之介に色紙を売りつけたりしてます。

色紙に書いたのは『かばねやみ』からの一節でした。

  みなとは暮れてルンペンの
  のぼせ上がったたくらみは
  藁でしばった乾しがれい
  犬に食わせて酒を呑み

おそらく、辻はこんな姿で吉行あぐり、淳之介の前に現われたと思います。

この辺りの事は、吉行淳之介の『湖への旅』という小説に書かれております。

前に書いた記事、「吉行淳之介辻潤」を参考にして頂ければと思います。
 →http://blogs.yahoo.co.jp/tei_zin/16819070.html


この写真の翌年の昭和19年に、辻は淀橋区上落合の静怡(せいたい)寮に住み、11月24日に虱にまみれて

餓死しているのを発見されます。

最晩年の辻潤金子光晴が書いております。

  金子光晴『江戸っ子潤さん』より。

  洗いざらしのひとえものに、尺八一本もってあてもなくふらついていたとしても、辻潤が、身一

  つをもてあましていると考えるのは早合点だ。(略)死ぬ一年前まで、僕は、毎週のように彼と

  あっていたが、どうして彼は、応分に生きる張りあいある人生をおくっていた。

  としよりになったが、彼は、むかしの俤を失わずに、なかなかいろ男だった。彼もよくやって来

  て、一ねむりしてかえったり、のろけをきかされたりしたが、僕のほうからも、彼のいた自由ヶ

  丘のアパートヘでかけていった。

  あの部墨はひどい焼けだたみで、ケバ立って、西日のつよくあたる部屋で、夏のことで二人はは

  だかになるよりしかたがなかった。(略)はだかで寝ながら話をきいていると、江戸のお店の旦

  那衆とかわりがなかった。それからもっと、江戸っ子の矛盾、江戸っ子のおやじ気質――彼は、

  むかっぱらを立つ。いたって条理は立っているのだが、ときどき、キイッと、曲り角の自転車の

  急ブレーキのようなきしみを立てる。よっぱらいの妻君のなれ初め話を、十度もきいた。

  いまでもときどきゆくらしい。むかしの好人の話がでるとき、彼は少なくとも三十台になる。

  自由ヶ丘のアパートのへやは、悴と悴の嫁のイボンヌが支那へたったあとのへやで、乱暴ローゼ

  キのままの上に異様な臭気がつよい。どこかすえたそのにおいは、屍臭に似ている。
  
  (略)

  もう、なにも食べもののない時代で、配給もなにもない彼はどうしているのかとくと、ファンが

  いると言った。松島へゆくと、寺で彼を待っててくれるのだが将軍様のお膝元はなかなかはなれ

  られないと言う。

  自由ヶ丘はまだ、田園らしい空気があった。パリヘ行っても、見物もせずに、そのままかえって

  きたくらいで、彼は、放浪や異国とは縁が遠い。白い木の橋のかかった川のふちをあるきながら

  彼は黒石の話をした。オンマー・ハイアムと、北氷洋のほら穴の話をした。それがまた、いつか

  しおらしい愛人の話になった。辻の女性は、どれがどの女なのか、それこそ分裂症状的に話がご

  たついて、現在と過去のけじめがつかない。

  ぶなの木の下の木椅子に腰をかけると彼は、ふとい息をついて言う。

  「死ぬときはね。死ぬときはうなきを食って死にてえ」

  (略)

  そんなことがあってから二度程会っただけで僕は疎開してしまった。

  終戦後に彼が死んだときいた。

二日前に、この写真を見た時から「うん、こんな感じや」とうれしくなっておりました。

この写真を教えて頂いたのは「tat tram asi」さんです。有り難うございました。

tat tram asiさんはこちらです→http://blog.so-net.ne.jp/masarude_02/