たがをはずす

 
ビョーキ男に付き添って病院に行く。

七年前、蹴っ飛ばして、引っぱたいて、ここに連れてきてシリツせんかったら、奴は寝たきりになってい

たのだ。

そうならなかったことが、奴にとって、よかったかどうかはワカランけどなぁ。

ミナミにある、脳神経外科病院。

病状は、レーニン水前寺清子=一歩前進二歩後退+三歩進んで二歩さがる=現状維持ネ。


帰りに、奴が「サマージャンボ」買いたいというので、虹の街で買って、ついでに「鷹の巣」で生中、酎

ハイ各一杯と串カツ数本。


「おい、有り金、持ち金ぜ~んぶ吐き出して、宝クジ買うだけ買えへんか?」

「・・・・」

「みんな外れてすっからかんになってから、一緒にフラフラになるまでやってみるのもええかもやで」

「・・・・」

「あんたもオレも、たがが緩んでもうてるけど、締め直すんも、外してまうんも一緒の力が入るんやった

 ら、外してスッキリしてみたいやんか」

「・・・・」

返事はなかった。


ホンマは、日本橋(ニッポンバシ)から電車で帰るつもりだったが、ビョーキ男は飲むと足にくるのでタ

クシーで帰った。

何してるこっちゃようわからん。


昨日、図書館で借りた、山本周五郎の『現代小説集』は、二段組みで本が古く活字がかすれて読みづらい

のでやめる。

ずいぶんと目が悪くなった。目と顔と性格の良さでここまでやってきたんやけどなぁ。


森崎和江の『大人の童話・死の話』を昨日の晩から読んでる。

 私は、墓をこしらえる生者の心を笑っているのではありません。むしろ現代社会に死者がその場を

 持たぬことを、うすっぺらに感じています。それが死を生と分離する文明のあらわれですから。

 私たちの社会は、生者も、それから生まれてくる胎児も、死にゆく者も、死者も、ともに存在して

 こそ、人間社会なのです。
                          -森崎和江『大人の童話・死の話』

こんな事が書いてあった。



そんだけ。