「スカブラ」でありつづけた人・・・上野英信

                                 2011.3.17
井の中の蛙 大海を知らず」という。
そうではない。井戸の深さを知りえた蛙は、大海の広さを推測できる。大海を泳いでいるからといって、その大きさを理解出来るものではない。と解釈したのが吉本隆明
その通りの人がいた。
九州の炭鉱から、この国の<闇>を刻み続けた人、上野英信
1967年出版の『地の底の笑い話』に「スカブラの話」というのがある。
スカブラ。筑豊の炭鉱労働者の中にいる、地の底の"寝太郎"のこと。
「奥州の大工の昭五郎、出羽荘内のせやみ太郎兵衛、信濃のものぐさ太郎、長州厚狭の寝太郎、沖縄の睡虫、などなど、大小無数、色とりどりの怠け者を私たちは先祖に持っているが、これはかならずしも喜ぶべきことではあるまい。先祖代々、いかに不孝な生活をくり返してきたかという証拠だからである。」
上野英信は、一人のスカブラ話を紹介する。これは、上野英信が薩摩大口出身の鹿子木半兵衛という労働者から聞いた話だそうだ。
久ちゃんという、時を刻むスカブラの話。
久ちゃんは、全然働こうとしない。ツルハシの柄も握ることはない。
何をしているか?係員詰所に時間を聞きにゆくこと、ただそれだけ。
「もう何時になりよるやろうかな。いっちょ、みにいってやろう」
「おい、もう十時になりよるぞ、もうすぐ飯にせえよ」
一日中がそのくり返し。
当然、現場と詰所を行ったり来りするだけであるから、一人かけることは残りの者が、久ちゃんの分まで働かざるをえない。
しかし、久ちゃんを誰一人として嫌がることもなく、むしろ可愛がられた。彼がいると、仕事ははかどり、休んだ日には能率が上がらなかった。八時間が倍にも三倍にも感じられた。
一度だけ、久ちゃんが時間を見に行くのも忘れて働いたことがある。坑道が崩れて、彼以外の仲間が閉じ込められた時。どんな偉いやつも彼にどなられて、きりきり舞いして働かされた。やっとみんなが救出された時、久ちゃんはこう言ったそうだ。
「このアンポンタン!きさまどんのおかげで、俺は時間を見に行くひまもなかったぞ!」
ここで、上野英信はスカブラ久ちゃんの武勇伝に感動しているのではない。
「私にとってなにより意味深く思われるのは、彼がたえず時を知らせつづけたという事である。彼は決してラジオの時報をつとめたのではない。彼はみずから地獄の柱時計の振子となってゆれ動くことによって、みずからを時そのものと化したのではあるまいか。」
そして、上野はスカブラの存在をこう理解する。
「堪えがたい時をみずからの運動としての時と化していく者、それこそが寝太郎であり、スカブラであろう。スカブラとは、もっとも絶望的な秒読みの音に肉体を刻まれつつ生きていく楽天主義の名でなければならぬ。」
「なるほど、もはやスカブラの生きてゆける状態ではなかろう。合理化は、そのような非合理の存在を許そうとしないからである。しかし、かならずや新たなスカブラがふたたび地底に発生するにちがいない。
なぜなら、もっとも虚妄なるものによって現実の仮面の皮をはぎとることこそ、スカブラの生命であり、存在理由であるからだ。しかし、もとよりこれは労働者が真に極限状態における楽天主義であるかぎりにおいてである。」
くり返す。
もっとも虚妄なるものによって現実の仮面の皮をはぎとることこそ、スカブラの生命であり、存在理由であるからだ。しかし、もとよりこれは労働者が真に極限状態における楽天主義であるかぎりにおいてである。
これは上野英信そのものではないか。
上野は、日炭高松第三坑を解雇される。朝鮮戦争終了後の不況と合理化策のなか直接的な理由としては学歴詐称で解雇される。
このとき、「飯の事は心配せんでもよか。アゴは干させん。あんたは字が書けるとやけ、書いて俺たちに読ませない、面白か話ば、頼っよるばい」と、上野に手を差し伸べたのは炭鉱の友人たちであり、ここから上野の、自身を筑豊へと引き寄せた地底の闇をインクとして文字を書く日が始まる。
上野の闇と筑豊の闇の絆が結ばれた。
『話の坑口』で上野英信は炭鉱との出会い、その理由を話している。
上野が炭鉱夫としての第一歩を踏み出したのは1948年の1月。前年に京都大学文学部(中国文学専攻)を労働者として生きたいと中退しての炭鉱夫は何故なのか。
上野は原子爆弾の洗礼を受ける。
「命拾いはしたが、心は完全に廃墟と化した。京都での学業生活も、その廃墟を生き返らせてはくれなかった。みずから命を絶つことだけが、私にとって、ただ一つの救いであるように思われる夜がつづいた。
ひさしく忘れていた、あの得体の知れない闇がひそやかに私のまえにたゆたいはじめたのは、そのなかのことである。その闇にいざなわれるままに、私は京都を去り、故郷を捨て、無夢病者のようにふらふらと筑豊炭田の地底へさがって行った・・・ましてもとより、炭鉱で文学にとり組もうなどとは、まったく思ったこともない。わたしはただやみくもに、わたしの心からヒロシマを消したかっただけである。あの、人間が見てはならない凄絶な生地獄の光景を消さなければ、到底、生きて行かれなかったのである。
もしあのとき、筑豊の闇が私をつつんでくれなかったとしたら、私は果たしてどうなっていたことか。そう想像するたびに、血が凍るような戦慄に襲われじにはいられない。」
「それにしても、不思議な闇の絆であったと思う。」
ひさしく忘れていた、あの得体の知れない闇、それは上野が幼い頃見た、遠賀川流域の炭鉱町の記憶。
「なにか得体の知れない闇にひきづりこまれてゆくような感覚に襲われるのであった。通り過ぎる長屋街の屋根のうねりから、痩せたいちじくの枝のとがりぐあいまで、眼をつむればくっきり浮かび上がるのは、ほかでもない、その恐怖の感覚のしわざであろう。・・・それが深い地底からにじみ出る闇であることに気づいたのは、ずっとのちのことである。むろん、その闇が、やがて私の光になろうなどとは、夢にも思わなかった。」
上野英信の炭鉱は、炭鉱離職者の海外移住者を南米に尋ねた『出ニッポン記』に(この海外移住は、国家による棄民といっていい)。明治時代に炭鉱移民としてメキシコに渡った沖縄県人の足跡を尋ねた『眉屋私記』に繋がっていく。
上野英信は<闇>という言葉を好んで使った。それは坑内の暗さだけではなく、「現実」の深部を指し、自らの抱える暗黒も含んでいたであろう。
「ぼくは、できるだけ遠くまで行ってみたいのです・・・」と上野が言ったとき、その遠くとは宇宙の漆黒であったかも知れない。それほどの拡がりをもつ<闇>であると思う。
上野が描く炭鉱の記憶。
それを、かっての戦争の記憶と同じように、「今の豊かな暮らしに感謝しましょう」とか「今の贅沢な暮らしを反省しましょう」などと話をずらしてはいけない。
上野英信の作品は、自らの<闇>と向かい合うこと、そうして<不思議な闇の絆>を拡げていった人の記録。
自分の<闇>と向かい合うこと。
そこから、どうするかしかない。
光はどうかは知らぬが、<闇>はたしかに重なると私は思う。
闇の絆を広げていけばいい。
引用は『地の底の笑い話』と『話の坑口』からのものです。

 

地べたで生きた、先人の記憶でいちばん大切なものはこれだろう?
抗え。