お茶漬けナショナリズム

こういうのは、今でもありますなあ。

お茶漬けや蕎麦食って「ん~、日本人でよかったぁ」とかなんとか言う人。

白米幻想も根強い。

「豊芦原の瑞穂の国(瑞々しい稲穂が実る美しい国の意)」なんて大ウソ。

自国だけでは白米を調達できなかった過去ってそんな昔の話でもないです。

一時期、せっかくの「タイ米」を不味いだとか言ってましたけど、近代日本は国外の米に頼ってやっと食

料を確保していたのです。当然、タイからも。

そんな状況で戦争始めるのも無謀だけど、けっこう呑気に考えていた節がある。

実際に不足し、食糧確保は問題化して行くわけです。

当時、米が食えるからって徴兵を喜んだという話もある。

どっかの国を笑える話でもない。飯が食えるで喜んでいる軍隊と兵士が強いわけがない。


で、お茶漬けナショナリズムです。三島由紀夫のエッセイです。


三島氏は、自決する四年前の昭和四十一年、『お茶漬けナショナリズム』という一文を「文藝春秋」に書

いた。これは、お茶漬けの味を考えつつ日本文化を論じた内容である。この手のエッセイは、お茶漬けと

いう日本固有の料理のなかに、日本人の伝統的な美意識をしみじみと語るものになりがちだけれども、三

島氏のものはまるで違った。

外国へ行くと、当地在住の日本人に「ぜひ家へお茶漬けを喰べにきて下さい。海苔もありますよ、千枚

漬もありますよ」と言われる。すると、進歩的文化人も反動政治家も、猫がマタタビの匂いをかがされた

ように、咽喉をゴロゴロ鳴らして喜んでしまう。

三島氏は、これがみっともない、と指摘するのである。舌を鳴らしてお茶漬けをかきこみながら、日本は

どうだこうだと議論をする連中を、三島氏は「お茶漬けナショナリスト」と批判する。

そして日本へ帰ってきて「やっぱり日本はいい。和食がうまいから」と言いはるのは、西洋を鏡として日

本文化を考える感覚で、「和食もうまいが洋食もうまかった」と対等に考えるべきだとする。お茶漬けの

味とビフテキの味を比べてみるのはナンセンスで、どちらが上とも下とも言えたものではない。これは、

日本人が、外国を鏡として自国の文化を認識する弊害からぬけきれていないためである。比較をするのは

一切やめるべきであると。

三島氏の頭には明治の帰朝者の気概がある。お茶漬けの味という食味レベルのナショナリストではなく、

日本人の精神的内面的価値に立脚したナショナリストになれ、と。三島氏は、ハンブルグの港へ行ったと

き、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、へんぽんとひるがえっていた日の丸を見て感激した。感激のあ

まり、その場にいたただ一人の日本人として、胸のハンカチをひろげて、ふりまわした。やっかいな日本

のインテリは、こういう話をするとニヤリとして三島氏を哀れむが、この「日の丸ノスタルジー」と「お

茶漬けナショナリズム」と、どちらが国際性があるか、と三島氏は問うのである。

「口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういふ中途半端な日

本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつきなが

ら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである」というのが三島氏の結論で

あった。・・・嵐山光三郎文人悪食』マガジン・ハウス/1997年 からでした。

にしても、ビフテキという言葉はもう死語かも知らん。


ただ今、猪瀬直樹の『三島由紀夫伝 ペルソナ』を読んどります。

負荷さんの連載を読んでの事です→http://blogs.yahoo.co.jp/rrrdx928/41952079.html?p=3&pm=l&t=1