こよみ

新年だ。

新春、迎春なんて言葉があちゃこちゃで飛び交っている。

春の実感もないけど、ようするに暦通りに進めるってやつだ。

今のニホンの暦は太陽暦だ。太陽暦は、3月21日に春分がくるように新年の日を決めて

るから、1月1日はこれから寒むなるでという季節になってしまう。

旧暦では二十四節季の大寒の前後に新年を迎えるようにしてる。

それで行くと今年は新暦の1月24日が元旦になる。

これなら新春、迎春といった言葉と季節は同時進行するだろう。

そういうことになると、今の暦での正月は中身が消えてしまった抜け殻みたいなもんと

も言える。

日本は、実は新暦に切り替えることで古くからの時間感覚を捨ててもうたりする。

一つの文化が変容するのは言語や宗教だけではなかったりするなんて話だ。

まあ、これはこんだけの話で、古き良き日本をどうたらこうたら話する気もない。

これから先も、暦と季節がずれたままで暮らして行くわけだけども、ニンゲンは賢い生

き物らしいから季節のほうを切り捨てて、暦のほうを残していくことになるんやろうと

思う。

その方が簡単やし、経費も安くてすみそうや。

ところで、私の住む町は道がウネウネしている。

だから、最寄り駅から総合病院まで行くのにはどれもが近道のように思える。実際はど

の道も時間的に大差はなかったりするのだけど。

なにしろ、付近の地図の最大の目印が、駅から見えない総合病院自身だったりするの

で、地図はあんまり役にも立たない。

そやから、苦労して病院にたどり着いた後、もう一度地図を見たとき妙に納得する人も

多かったりする。

ようするに、その時にその人の頭のなかに描かれた光景は、既成の地図には見えている

はずもない無数の記憶によって豊富化され、ほんとうの地図になっているのだというこ

とかも知らん。

話はまた暦の話に戻ったりする。

元旦は、暦が同じならビンボー人にも金持ちにも等しくやってくるのだろう。

ほんでも、誰も暦通りに生きて暦通りに死んだりするわけがない。

当たり前やけど。

蝉もその日で死んでしまう事を知ってて鳴いているわけでもない。

死ぬまで生きるってやつだ。

そんだけのことなのだ。

だから、暦は世間の決めごとの時間であっても、自分の時間ということではなかったり

する。

さっき正月の事でも書いたけど、中身が消えた抜け殻のような暦を生きてもしゃあない

のだ。