きのうの夕刊から
昨日の朝日・夕刊の「文芸時評」は加藤典洋やった。
<批評の爆発-文学史的常識にノー 面白いのは「出発点」>
こんな見出しで、「今月は抜群に面白い批評の本が二冊」と書き、秋山駿の『私小説と言う人生』と高橋
源一郎『ニッポンの小説』を取り上げてた。
特に秋山駿の『私小説という人生』で加藤典洋はこんな事を書いている。
「しかし秋山さんは、なぜこの歳になって、路上に包丁をもって飛び出すような真似をしているのか」
具体的には「いま、明治のものを扱う日本の批評はほとんどが、これを過去の遺物、分析の対象と見て、
「手を汚さない」。批評家秋山駿は、七十歳を過ぎて、ようするに、この風潮にキレた。そして、とんで
もなく、面白い、文芸批評の大問題作を書いた。」と書いている。
とりあえず、読んでみようかと思う。
しかし、「なぜこの歳になって、路上に包丁をもって飛び出すような真似をしているのか」という言い回
しは、たしかに目を引くけど適切なんだろうかと思うてしまう。微妙ってやつだ。
加藤典洋は『言語表現法講義』が私には面白かった。
『敗戦後論』は、こっちが議論というか言い争いに疲れてきた頃、もう一度話を整理して結局は話を振り
出しに戻す様な秀才が中学校の時にいたけど、そんな感じの本やった覚えがある。
「文芸時評」の隣の「こころの風景」は荒川洋治が書いてた。
「五十七歳ともなると、新しいことをしたくない。てもとにあるものをしっかり見たい」と書いてた。
荒川洋治も五十七歳かと思った。
ある時、プロ野球の現役に自分と同い年の選手がいないことに気づいて唖然呆然で愕然となった事があっ
たけど、そんなのと似た思いがした。
詩集『水駅』。
世代の興奮は去った。ランベルト正積方位図法のなかでわたしは感覚する。
今はない京都駸々堂京宝店で、これを立ち読みした時のことは覚えている。
小学校の頃、公園で遊んでると日が暮れてきて、一人帰りまた一人帰り・・・。
とうとう誰もおれへんようになってしもうて、意地クソで遊んでたら、ようやく誰かが迎えに来てくれた
ような気がしたのだ。
そんだけ。