『白痴は予言する』

イメージ 1


辻潤の翻訳を集めたものに『螺旋道』があります。

『白痴は予言する』は、ヘッセが『白痴』のムイシュキン公爵について書いたものの訳です。

けっこう長いですが、私なりに書き抜いていた所を部分掲載します。

   『白痴は予言する』ヘッセ/辻潤訳から

 これ等の一切の疑問は「白痴」がこの世の人々とは全然別なことを考えているということによっ

 てのみ解決される。それは彼の考えがかれ等より非論理的であり、子供らしいからというのでは

 ない。彼の考え方は自分が、「魔的」と呼ぶところのものなのである。

 この慈悲深い白痴は人生の全部を否定しているのである。他の人々に映ずる一切のこの世の現実、

 一切の思想と感情とを否定しているのである。

 彼にとっては現実はかれ等とは全然異なったものなのである。かれ等の現実は彼にとっては一幻影

 に過ぎないのである。それ故彼は新しい現実を見てそれを提供するのである、そうして彼が敵にな

 るのである。

 その相違は、かれ等が権力や、富や、家族や、国家を高く評価するに反して彼がそれをしないとい
 
 うことではない。或いは又かれ等が物質の立場に立つに反し彼が精神の立場に立っているからとい

 うのでもない。

 白痴にとっても亦物質は相当に関心に値いするし、必然にその意義は認めている。ただそれを第一

 義的に考えていないだけである。彼の福音は禁慾的な印度風の理想でもなく、現実の一切を無視し

 それのみがひとり真理を知る不滅な霊魂の歓喜にひたろうというのでもない。否、ムイシュキンは

 容易に他の人々と提携し、自然や精神や、共同の仕事の要求に応ずるであろう。

 かれ等にとっては精神と物質の両界が同時に存立し、同一価値を有しているということは単に智的

 な思惟であるに反して、彼にとってそれが人生と現実とを構成している事実なのである。

 人間の教養を土台として見た最高の現実は世界を光りと閻とに、善と悪とに、また許されたる物と

 禁ぜられたる物とに分かつことである。

 ムイシュキンにとっての最高の現実は一切の制度を転覆し、一切の道徳的価値と等しい存在を経験

 することである。結局、白痴は無意識界の母権を誘導し文明を粉微塵に粉砕する人間である。

 彼は律法の板を破るものではなく、単にそれを裏返して、その反対も等しく記されていることを人

 々に示すばかりである。
 
 この恐るべき書物の秘密はこの秩序の敵、この恐るべき破壊者が兇漢の姿をしていないばかりか、

 かえって愛すべき無邪気な、慈愛に満ちた臆病な人物として現わされていることである。

末尾に辻潤が、これを翻訳した気持ちを書いております。

 この論文は梢や冗漫ではあるが、自分の近頃考えている問題に深くふれている点があるので訳して

 みたのである。自分が夙に政治的革命の無意味であることを認めている人間であるということは今

 更いうまでもないことである。実をいうと「世界」はこのありのままの姿であっていいのである。

 否、それよりどうしようもないのである。それを変革しようとするのが人間の愚かなイリュウジョ

 ンで、それよりも根本的に物の見方を変えればいいのである。

 もしかりにムイシュキンの如き人物のみによって(というのは彼と相似の外貌を持った人間という

 意味ではなく、彼の如き思想と生活態度を持った人間という意)この世が占有されたら恐らく何の

 苦もなく一種のユウトビヤが現実されることと思う。それはどの位の程度に於いて理想的であるか

 は知らぬが少なくとも現存の法律や、政府はたちどころに無用の長物と変ずるに相違ない。

 ムイシュキンはまことに「白痴」でもあろう。しかも、立派な「超人」でもある。この「超人」は

 ニイチェ風な鬼面人を威嚇するといったようなところがなく、温顔で春風駘蕩として、当人も至極

 楽々としているのである。しかし、英雄や天才や、なにか「権力意志」といったようなものの好き

 な人達は恐らくかくの如き人物では満足できないであろう。ナポレオンや、レーニンや、ムッソリ

 ニや、その他の御歴々が天下の喝采を博している所以である。

 自分を省みない人間、自己の「本体」に就いて深く考察したことのない人間、徳や、智識や、富や

 権力によって他に優越を誇ろうとする人間、他人を裁く力があると思惟している人間ーこれ等のお

 ろかしい人種どもはまず「白痴」の人格に参じて、彼の「無理想」と、彼の「天真」とを学ぶべき

 である。平等とは一切が同一の姿になるのではなく、差別のままで平等であるという意である。

 この真理は何人によって教えられるものでもなく、各自がその生涯のなん等かの時期に於いて悟ら

 なければならないとヘッセはいっているが、正にその通りであると思う。

ところで、画像は何の関係もなく昭和18年秋、中西悟堂邸でのものです。

この写真が好きなもんで。

はい。